蜃気楼
５月の太陽は、地上のすべてに等しく恩恵を注ぐ。
場末の警察の裏庭さえ、その例外ではなかった。
後藤は深呼吸を一つして、濃い土の匂いを胸に入れた。ゆっくり草を踏み始めた足が、いくらも歩かな
いうちにふと、止まる。
出しかけた煙草をそのままにして、その光景に見入った。
女は唇を薄く開き、音も立てずに眠っている。顔にかかる木陰がかすかに動くたび、まつげの黒が色を
変えた。
しばらく見つめてから、後藤は静かに近づき女の傍らに腰を下ろした。膝を抱え、煙草を抜いては戻し
しながら、飽かず女を眺める。
蝶が、無音で飛んだ。
ざ･･････、と風が上がり、長い髪が頬にかかる。女が目を開く前に、後藤は視線を海に移した。
「･･････後藤さん。」
まだ、どこかさまよっているような声。海を見ながら「やあ」と応えた。
しのぶが起き上がる。髪についた草をつまむ様子に、決まりの悪さが窺えた。
「悪いね、休憩中に。」
「･･････。」
作業が再開したのだろう、ハンガーの方から機械音が聞こえてくる。手慰んでいた箱からとうとう１本抜
き取り、ライターを鳴らした。
「･･････気、遣わせたかなと思って。」
「別に」と答えるしのぶの声が、風に半ばかき消される。
「･･････少し、外の空気が吸いたくなっただけよ。」
「あ、そお。」
無理もなかった。
隊長室に戻ってきた同僚がいきなり壁を殴りつけたら、たいていの人間は外の空気を吸いたくなるだろ
う。誰もいないと思った更衣室から、しのぶがそっと出て来た時の気まずさといったらなかった。
炎を守ろうとしてかざした手の甲が赤い。
広がった煙が瞬時にかき消えるのを見届けてから、しのぶが笑みを漏らした。
「･･････痛いんでしょう。」
「そりゃあもう。」
「自業自得よ。」
「後悔してるよ。」
女が声を上げて笑い出す。後藤はあーあ、と寝転がった。
「似合わないことはやるもんじゃないねえ。」
「似合わない･･････？」
かすかな呟きに、後藤が片眉を上げる。口をついて出た言葉に、しのぶは自分でも驚いたようだった。
「･･････なんとなく、意外じゃない気がしたの。変ね。」
よく知りもしないのに、としのぶは不思議そうに言う。後藤が笑った。
「大人げのない人間だと思ってるんだよ、常々。」
「そうね･･････。」
「･･････。」
しのぶは何か考えている。「否定、しないのね･･････」という後藤のボヤきは聞こえないようだった。諦め
て後藤は目をつむる。
草いきれの中、暖かさに包まれ静かに呼吸していると、そのまま地面に吸い込まれてしまいそうだった。
「後藤さんにも･･････」というしのぶの声が聞こえる。
「そういう所があって欲しいと思ったんだわ、私。」
後藤は寝たふりをした。
今どんな顔をしてるのかな、と思った。
ほどなく気配がして、しのぶも横になったのが分かった。
柔らかな風が吹いた。
＊
少し悲しい気持ちで、しのぶは目を覚ました。何が悲しかったのか思い出せない。
目の前に、眠る男の顔があった。
無防備に緩んだ顔に、つい笑みをこぼしてから、少し驚く。
こんな感覚を、もうずっと忘れていた。
かつて隣に眠る者がいて、寝顔を許される幸せがあったことを、しのぶはぼんやり思い出した。暖かな
空気に半ばまどろみ、微かな草の音を聞きながら、男の寝顔を眺め続けた。
ふいに男が目を覚ました。
さまよう視線がしのぶを捉え、ゆっくりと笑みに変わる。目の前の女を見ているような見ていないような、
後藤もやはり何かを思い出しているのだと、しのぶは思った。
ああ･･････、
この男も、大きな悲しみを抱えている。
黙って、ただ見つめ返した。夢と現を行き来していた後藤の焦点が、しのぶに定まるのが分かる。した
たかな半目がしのぶを見つめている。穏やかに告げている。
好きだ、と。
伸びてきた男の手を、しのぶの頬はなぜか拒まなかった。指先は顎へと滑り、そして止まった。
静かなキスだった。
男がそっと身を離す。目を閉じたまま、しのぶは意識の奥で煙草の匂いを辿った。
それから突然我に返った。
どうして･･････、
急にはっきりした視界に、後藤の顔が違う意味を伴って映る。男の口が開く前から、次に放たれる言葉
がしのぶには分かった。自分にはその資格がないことも。
「しのぶさん･･････、」
「ごめんなさい。」
立ち上がり、背を向けた。
「忘れてちょうだい。どうかしてた。」
自分に絶望する。こんなにいいかげんな人間だと思わなかった。
後藤の顔を見ることができない。
「･･････もう、ここには来ないわ。」
起き上がる男から逃げるように、走った。
何かが、胸の奥から突き上げてくる。自分は卑怯者だと思った。
女が去った方角を、後藤は無言で見つめた。機械のような仕草で煙草を抜き取り、火をつけようとして、
動きが止まった。
「忘れて」という声が頭に響く。
「･･････遅いよ。」
指の間で、煙草が、折れた。
後藤は立ち上がった。
＊
いつもの自分とよほど違うのだろう。すれ違う整備員達が、血相を変えて道を譲っていく。けたたましい
音を立てているのが自分のサンダルだということに、その時初めて後藤は気づいた。
隊長室にはいない。ハンガーにも、会議室にも、電算室にもしのぶの姿はなかった。
大体想像はつく。
１人でいるはずだ。ほんの少し、開いてしまった扉を閉ざそうとして必死でいるはずだ。
いま伝えろ、さもなくばいま諦めろ。
屋上のドアを開けると女の姿が目に入った。音に気づいた女がこちらに向き直り、足を踏み締めて臨戦
体制を示す。構わず突進し、一太刀放った。
「好きだ。」
「駄目よ。」
同時だった。跳ね返す眼差しの強さに、後藤が一瞬気おされた。しのぶがたたみかける。
「まず謝るわ。軽率だった。あんなことをするべきではなかった。」
「どうして。」
「どうして、って･･････、」
今度はしのぶが詰まった。「ここは職場よ。それで十分でしょう」とかぶりを振る。
「答えになってないな。」
後藤が一歩踏み出した。
「あなたは、俺に対して不誠実だったのか。」
しのぶは答えられなかった。ここで詰まってはいけないと思うのに、声が出ない。
「しのぶさんが好きだ。」
「やめて。」
「好きだ。だから触れた。それだけだ。･･････教えて欲しい。」
しのぶが手すりを強く握る。
「どうして、拒まなかった。」
「･･････。」
「俺は幸せだった。あの時、しのぶさんがいて、何と言うか思い出したんだ。それで、あなたが好き
だと分かった。」
信じられない思いで、しのぶは目の前の男を見上げた。これが本当にあの後藤喜一だろうか。男が困
ったように笑う。
「どうかしてると俺も思うよ。これでも必死なんだ。」
喉の奥が熱い。言うべき言葉をうまく掴み取れず、しのぶは喘いだ。
「答えてくれ。俺は、あなたを幸せにしなかったか。」
「自惚れないで。」
やっとのことで吐き出した言葉は、なぜかしのぶの胸をえぐった。一瞬の沈黙の後、堰を切ったように
溢れ出す。
「あなたに、私を幸せにする力はないわ。私が不誠実だったかと聞いたわね。答えはイエスよ。あなたを
愛していないわ。」
みぞおちがギリギリ痛む。これは罰だ、としのぶは思った。
後藤に背を向け、勢いに任せて吐き出した。
「流されたの。誰でもよかったの。」
「それなら、」
急に肩を掴まれ、しのぶは「やめて」と言おうとした。
しゃくり上げる音だけが、高く響いた。
「･･････どうして泣いてるんだ。」
力強い腕が、しのぶを振り向かせる。抵抗して顔を振った途端、頬に、熱いものがばたばたと落ちた。
「知らな、い、」
抱きしめられ、言葉が行き場を失う。後藤の厚い掌が、しのぶの頭を強く、何度も撫でた。
「好きだ。」
「････････････！」
声にならない声を上げて抗うしのぶの手を肩を、後藤は包み、温めるようにかき抱いた。
「怖い･･････！」
細い声が漏れる。
しのぶの本当の声だと、思った。
「･･････大丈夫。」
顔を覗き込む。しのぶは放心したように、後藤を見つめ返した。たった今自分の口から出た言葉が信じ
られないようだった。
「怖くていい。･･････だから、しのぶさんは強いんだよ。」
「･･････よく、分からないわ･･････。」
「全部ひっくるめて好きってこと。･･････それに、」
涙でぐちゃぐちゃの顔を両手で挟み、笑ってみせる。
「俺も怖いよ。」
「･･････それは全然分からないわ。」
真面目な顔で言うしのぶを、もう一度抱きしめた。光る海を見つめ、「怖いよ」と独りごちる。聞き咎めた
しのぶに、静かに、尋ねた。
「･･････しのぶさん、幸せ？」
胸の奥の震えは抑えた。
しのぶが「そうね」と呟く。
「･･････これが幸せなら、最悪だわ。」
思わず顔を見た。
「頭がグラグラして、苦しくて、うまく息ができないの。自分が自分じゃないみたいだし、フワフワして、
･･････何笑ってるのよ。」
「･･････俺もだ。」
女が何か言う前に、唇を塞いだ。
この作品は、実験的に、書き始めから完成までの経過をブログ上で公開しておりました。興味のある方は
下からどうぞ。修正した箇所を赤字で示しています。
それから、実験ついでに、この作品のタイトルを募集しております。
07.09.29 ちささまから「蜃気楼」というタイトル第１号をいただきました！ ちささま、ありがとうございます！
募集は今後も細々と続けますので、奮ってどうぞ。
●第１稿
●第２稿
●第３稿
●第４稿
●第５稿
●第６稿
●第７稿
●第８稿
●第９稿
第10稿目がこのページ（完成版）です。
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