「無題」第8稿
5月の太陽は、地上のすべてに等しく恩恵を注ぐ。
場末の警察の裏庭さえ、その例外ではなかった。
後藤は深呼吸を一つして、濃い土の匂いを胸に入れた。ゆっくり草を踏み始めた足が、いくらも歩かな
いうちにふと、止まる。
出しかけた煙草をそのままにして、その光景に見入った。
女は唇を薄く開き、音も立てずに眠っている。顔にかかる木陰がかすかに動くたび、まつげの黒が色を
変えた。
しばらく見つめてから、後藤は静かに近づき女の傍らに腰を下ろした。膝を抱え、煙草を1本抜きかけ
ては戻して、飽かず女を眺める。
蝶が、無音で飛んだ。
ざ・・・・・・、と風が上がり、長い髪が頬にかかる。女が目を開く前に、後藤は視線を海に移した。
「・・・・・・後藤さん。」
まだ、どこかさまよっているような声。海を見ながら「やあ」と応えた。
しのぶが起き上がる。髪についた草をつまむ様子に、決まりの悪さが窺えた。
「悪いね、休憩中に。」
「・・・・・・。」
作業が再開したのだろう、ハンガーの方から機械音が聞こえてくる。手慰んでいた箱からとうとう1本抜
き取り、ライターを鳴らした。
「・・・・・・気、遣わせたかなと思って。」
「別に」と答えるしのぶの声が、風に半ばかき消される。
「・・・・・・少し、外の空気が吸いたくなっただけよ。」
「あ、そお。」
無理もなかった。
隊長室に戻ってきた同僚がいきなり壁を殴りつけたら、たいていの人間は外の空気を吸いたくなるだろ
う。誰もいないと思った更衣室から、しのぶがそっと出て来た時の気まずさといったらなかった。
炎を守ろうとしてかざした手の甲が赤い。
広がった煙が瞬時にかき消えるのを見届けてから、しのぶが笑みを漏らした。
「・・・・・・痛いんでしょう。」
「そりゃあもう。」
「自業自得よ。」
「後悔してるよ。」
女が声を上げて笑い出す。後藤はあーあ、と寝転がった。
「似合わないことはやるもんじゃないねえ。」
「似合わない・・・・・・?」
呟きに、後藤が片眉を上げる。口をついて出た言葉にしのぶは驚いたようだった。
「・・・・・・なんとなく、意外じゃない気がしたの。 変ね。」
よく知りもしないのに、としのぶは不思議そうに言う。後藤が笑った。
「大人げのない人間だと思ってるんだよ、常々。」
「そうね・・・・・・。」
「・・・・・・。」
しのぶは何か考えている。「否定してよ・・・・・・」という後藤のボヤきは聞こえないようだった。諦めて後藤
は目をつむる。
草いきれの中、暖かさに包まれ静かに呼吸していると、そのまま地面に吸い込まれてしまいそうだった。
「後藤さんにも・・・・・・」というしのぶの声が聞こえる。
「そういう所があって欲しいと思ったんだわ、私。」
後藤は寝たふりをした。
今どんな顔をしてるのかな、と思った。
ほどなく気配がして、しのぶも横になったのが分かった。
柔らかな風が吹いた。
*
少し悲しい気持ちで、しのぶは目を覚ました。何が悲しかったのか思い出せない。
目の前に、眠る男の顔があった。無防備に緩んだ顔は、小さく笑っているようにさえ見える。
こんな感覚を、もうずっと忘れていた。
かつて隣に眠る者がいて、寝顔を許される幸せがあったことを、しのぶはぼんやり思い出していた。暖
かな空気に半ばまどろみ、微かな草の音を聞きながら、男の寝顔を眺め続けた。
ふいに男が目を覚ました。
さまよう視線がしのぶを捉え、ゆっくりと笑みに変わる。目の前の女を見ているような見ていないような、
後藤もやはり何かを思い出しているのだと、しのぶは思った。
ああ・・・・・・、
この男も、大きな悲しみを抱えている。
視線を受け止め、見つめ返した。夢と現を行き来していた後藤の焦点が、しのぶに定まるのが分かる。
したたかな半目がしのぶを見つめている。穏やかに告げている。
好きだ、と。
伸びてきた男の手を、なぜか避ける気になれなかった。指先が頬に触れ、顎をすべる。
静かなキスだった。
男がそっと身を離す。煙草の匂いが頭の奥に届いた。
そしてしのぶは我に返った。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう。
男の口が開く前に、しのぶには次の言葉が分かった。自分にはその資格がないことも。
「しのぶさん・・・・・・、」
「ごめんなさい。」
立ち上がり、背を向けた。
「忘れてちょうだい。どうかしてた。」
自分に絶望する。こんなにいいかげんな人間だと思わなかった。
後藤の顔を見ることができない。
「・・・・・・もう、ここには来ないわ。」
起き上がる男から逃げるように、走った。
涙が出る。自分は卑怯者だと思った。
しのぶが去った方角を、後藤は無言で見つめ続けた。機械のような仕草で煙草を取り出し、1本抜き取
る。
火をつけようとして、動きが止まった。
「忘れて」という声が脳裏に甦る。
「・・・・・・もう、遅いよ。」
指の間で、煙草が、折れた。
後藤は立ち上がった。
*
よほどいつもの自分と違うのだろう。すれ違う整備員達が、血相を変えて道を譲っていく。
隊長室にはいなかった。ハンガーにも、会議室にも、電算室にもしのぶの姿はない。
いま伝えろ、さもなくばいま諦めろ。
屋上のドアを開けると、女の姿が目に入った。音に気づいた女がこちらに向き直り、足を踏み締めて臨
戦体制を示す。構わず突進し、一太刀放った。
「 好きだ。」
「駄目よ。」
同時だった。跳ね返す眼差しの強さに、後藤が一瞬気おされた。
【修正メモ】
「ハッピーエンドにしてください」という要望を2件いただきました。ありがとうございます。正直、ハッピーエ
ンドでもバッドエンドでも、心情が十分書けてかっこよければどっちでもいいのですが、前回の所で終わ
ったのではその両方が満たされないので、もう少し続きを書きます。心情をぶつけ合うシーンはどうして
も説明的になってベターっとしそうなので、「切り結ぶ感じ」というイメージを加えて、疾走感と緊迫感を出
していきたいと考えています。
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