二人の軽井沢 外伝(上)








     後藤さん、まだ起きてるのかしら。

 しのぶは毛布を鼻先まで引っ張り上げ、向こうを向いて寝ている後藤の後ろ姿を見つめた。
 つい今しがた、バスタオルをかけに行った時も後藤は背中を向けていた。腹の辺りは規則正しく動いて
いたが、本当に寝ていたのかどうか。

 とても眠れそうにない。後藤がこのベッドの脇までやって来た意味を掴みかねて、しのぶは先刻の出来
事を何度も反芻していた。     後藤が自分を見つめて、それから戻って行った。
 お風呂覗いた時みたいにちょっかい出そうとしたら、私が寝てるものだから、気がそがれて帰って行っ
     のよね?
 もう一つの可能性が頭にちらつかないでもない。でも、今こうやっておとなしく寝てるんだし。そうよね、
運転までしてもらって、こんな所で足止めくらわせて、その上疑うなんて後藤さんに悪いわ。

 思い直して寝返りを打とうとした時だった。

「へっくしょっ!」

 後藤のくしゃみが派手に響いた。
 見ると、しのぶがさっきかけてあげたバスタオルを肩まで引き上げている。ベッドにはあんなにいろんな
機能がついているのに、建物が古いのか、部屋に冷房のスイッチがない。そのため、フロアごと一晩中
空調が効いているのだ。毛布のしのぶもなんとなく薄ら寒いくらいだから、後藤が寒さを感じていないは
ずがない。

「へっくしょっ!」

 ずずっ、と後藤が鼻をすする音がした。起きているのは間違いない。

     どうしよう。

 この上風邪まで引かせたのでは申し訳ない。
 今のところ(ほぼ)紳士的に振る舞ってくれているではないか。それに2人ともいい大人なんだし、構え
過ぎるのは自意識過剰かもしれない。

「後藤、さん。」

 そっと声をかけてみる。

     はい?」

 こちらに背を向けたまま、後藤が答える。しのぶは大きく息を吸った。

「あの、寒いでしょ?やっぱりバスタオルだけじゃ。     その、ベッド、広いから・・・・・・こっちに・・・・・・、」

 後藤がこちらを向いた。暗くて表情までは見えない。

「・・・・・・いいの?」

 押し殺した声がいつになく真剣で、しのぶはどきりとした。

「あ、私がソファで寝ればいいのよね。交代しましょう。それで     、」

 後藤が起き上がってこちらにやって来る。しのぶも慌てて起き上がった。ベッドから出ようとして、後藤
に手首をぎゅっと掴まれる。その手の冷たさにしのぶは驚いた。

「だめ。冷えちゃうよ。」
「あ・・・・・・。あの、ごめんなさい。気がつかなくて。風邪引かないといいけど     、」

 後藤は黙ってベッドにのし上がると、毛布を引っ張り上げてしのぶと自分にかけた。

「あ・・・・・・、」
「寝よう。もう何時間も寝れないけどね。」
「ああ・・・・・・、そうね。」

 まったく警戒を解けないまま、しのぶはベッドの端の端へにじり寄り、後藤に背を向けて身をそっと横た
えた。背後の後藤もこちらに背を向けてじっとしているようだ。もう眠いのだろうか。毛布から出たのは一
瞬だったが、確かに寒かった。後藤はさぞかし冷えているだろう。

     やっぱり、よかったんだわ、これで。

 しのぶは自分に言い聞かせ、目をつぶった。

 1時間後。
 しのぶは自分の決断を完全に後悔していた。
 後藤を信用したことを、ではない。後藤は静かに寝ている。しかし微動だにしていないのだ。

     絶対、後藤さん寝てないわよね。

 この1時間、ぴくりとも動かなければ、寝息も聞こえてこない。普通、いびきをかかない人でも寝入りば
なは深い寝息を立てるだろう。
 そして後藤がこの1時間覚醒していることを知っているしのぶも全く同じ状況なのだった。かすかな物
音でも察知できるくらい、お互いがお互いを意識しているのが分かる。緊張はピークに達していた。

 ぎしっ。

 突然背後のベッドがきしみ、しのぶは体をびくっと震わせた。後藤が起き上がったのだ。
 しのぶは息をつめた。見えてはいないが、体のセンサーがすべて後藤の方へ向いている。

     あら?

 後藤は立ち上がり、ベッドから離れたようだ。トイレかしら、と思う間もなく後藤は戻って来て、またもそ
もそと毛布にもぐり込んだ。

 シュボッ。

     そういうことね!

 しのぶは寝たふりも忘れて、思わず向き直る。

「後藤さん、寝タバコは・・・・・・!」
「あ・・・・・・。」
「あ・・・・・・、」

 起きてた、よね。
 沈黙が流れる。
 半身を起こした後藤はそのまま起き上がり、ベッドの背板にもたれて煙を吐き出した。

「ま、その・・・・・・、気分転換にね。」

 眠れないから、よね。
 しのぶは一息ついてばっと起き上がった。

「しのぶさん?」
「私も吸おうかしら。」
「ええ?」
「ね、1本もらえない?」
「しのぶさん、吸ったことあるの?」
「いいえ。これが初めてよ。でも吸いたい気分なの。」

 気おされたように後藤はサイドテーブルへ手を伸ばし、とん、とパックを叩いて煙草を1本出した。しの
ぶに渡してから、ライターをつける。

「軽く吸って・・・・・・、そう・・・・・・、」
「・・・・・・。」

 口に含んだ煙をどうしていいか分からず、後藤を見る。

「ゆっくり深呼吸する感じで、肺に入れて・・・・・・、」
「!」

 ごほんごほんとしのぶがむせぶ。後藤はなにやら嬉しそうに見ている。

「ほんとに初めてなんだね、しのぶさん。」
「こんなもののどこがいいのかしら。」
「俺もそう思うんだけどね・・・・・・。」

 片手で背中をばりばりかきながら、後藤はまた深く煙を吸い込み、吐き出した。
 煙草を手の中で弄びながら、しのぶはつくづくと後藤を見た。

     こんな顔だったのね。

 前髪が下りた後藤を見るのは初めてだった。普段オールバックにしているだけあって、前髪が長い。そ
の間からのぞく眠そうな目も、こけた頬のラインも別人のように見える。言いたくはないが、セクシーだ。
浴衣の胸がはだけて、意外にたくましい胸が見え隠れする。

     やだ、何考えてるの。

「しのぶさん、セクシーだね。」
「えっ?」

 しのぶはぎょっとして顔を上げた。後藤はのんびりと最後の一服を終え、煙草を灰皿でもみ消した。

「いや、そうやってパジャマで煙草くゆらせてるのってさ。ま、吸ってないんだけどね。灰、落ちそうだよ。」
「あ・・・・・・!」

 慌てて灰皿の方へ身を乗り出した。自然、後藤を乗り越える格好になる。後藤の方を見ないようにして
片手を付き、煙草をもみ消した。その時。

「しのぶさん、ごめん。」

 え?     と思う間もなく、しのぶは抱きすくめられていた。

「後藤さ・・・・・・、」
「大好きだわ、俺。」
「・・・・・・!」
「しのぶさんが。」

 何も考えられなかった。何て言ったの、今?

「ほんと、自分で褒めてやりたいくらい今日は我慢したんだけどね、なんか、もう限界きちゃったみたい。」

 しのぶの髪をなでる手が優しい。心なしか震えているようだ。後藤はそのまましばらく髪をなで続けた。
しのぶも手を突っぱった姿勢で、されるがままにしている。

     言ってくれる?」
「え?」
「俺、どうしたらいいか。しのぶさんが嫌なら駐車場行って車で寝るわ。ちょっとここにはいられないから
ね。もし・・・・・・、」

 嫌じゃないなら、という言葉を後藤は飲み込んだ。すっと身を離してしのぶをまっすぐ見る。固く握った
拳が震えているのが、はっきりと分かった。

 深い沈黙。

「私は・・・・・・、」

 声が乾いている。

「後藤さんを好きかどうか、分からない。」

 後藤は息をついた。

「分かった。ごめんね、ほんと     、」
「でも・・・・・・!」

 しのぶに浴衣の袖を引かれ、後藤は固まった。

「駐車場には行って欲しくないわ。」
「・・・・・・。」
「どういうことか、分かってるけど。」

 今度はしのぶが後藤をまっすぐに見た。

「・・・・・・いいの?」

 後藤がかすれた声で尋ねる。

「私こそ、こんな曖昧でいい     、」

 言葉は最後まで紡がれなかった。後藤が堰を切ったようにしのぶを抱きしめる。

「俺のこと、好き?」

 そうかもしれない、としのぶは消え入りそうな声で、言った。






 
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