UNDO(前)
「よー、おけーり、ごえも・・・・・・、」
モニターから顔を上げたルパンの口が、ぽかんと開きっ放しになった。新聞を下ろした次元も、入口に立つ男を呆れて眺める。
久々に帰還した侍の、こんなに取り乱した様を見るのは二人とも初めてだ。挨拶もせず部屋を突っ切る侍は、雨でもないのに
なぜか蓑笠をかぶっている。そのまま隣の部屋に行きかけて何か思い出したらしく、慌ててドアへと駆け戻った。
「おい、五右ェ門。」
「――― 待て、」
言い捨てて、侍はリビングのドアに鍵をかけ始めた。もしや、と次元の背に緊張が走る。追われているのか? しかし、追っ手
のかかったままアジトに逃げ帰るようなヘマを、この侍が―――、
「ルパン、次元!」
振り返った侍が、ずかずかと二人の方へ歩いて来た。
「何も言わず、拙者を縛ってくれ。」
「はあぁ!?」
驚く二人の前で、五右ェ門が蓑笠をさっと取る。真に驚くべきものはそこにあった。
「なんっだお前、それァ・・・・・・!?」
「耳・・・・・・、か・・・・・・?」
「そうだ。」
返事をするのももどかしそうに、侍は辺りを見回した。頭の上には、灰色のふさふさした大きな耳がぴんと立っている。見たとこ
ろ犬のそれらしい。
「縛るものは・・・・・・、ないか。早くせぬとお主らが危ないのだ。ないならこれで・・・・・・!」
帯をしゅっしゅと解き始めた五右ェ門を、待て待てと二人は制した。とりあえず奥の部屋からロープを取って来る。緩んだ袴か
ら、あろうことかでかい尻尾まで現れた時は腰が抜けそうになったが、とにかく侍の言うとおりに腕ごと胴体を縛り上げた。完全
に拘束され、一人では解けないことを念入りに確認すると侍はやっと安心したらしく、大きな息を吐いてどっかと座り込む。
「・・・・・・これでよい。すまぬ、二人とも。」
「話せよ五右ェ門。一体何があった?」
「―――、」
急に言葉に詰まり、侍は口を開いたまま視線を落とした。やがて意を決したように眉を引き締める。
「実は・・・・・・、」
言いかけた途端、「ぐっ」と喉の奥からおかしな音が漏れた。
「五右ェ門?」
「いかん、お主ら、離れていろ! ・・・・・・うっ!」
「五右ェ門!」
――― ウオオオーン!
人間が発したとは思えない雄叫びが上がる。続いて侍の体から、ほわぁんと七色の光が溢れた。
「ごえ・・・・・・!?」
眩しさに思わず目を覆う。光はすぐに消えた。同時に、五右ェ門の姿も消えていた。
「・・・・・・!!」
そこには、一匹の狼がいた。
縛られた大きな体躯が、どう、と床に倒れ込む。
ウオーン! ウオーン! ウオオーン!
侍の着物とロープを体に絡ませ、自由になる後脚で床を激しく掻いて、狼は吠えに吠えた。呆然として二人は立ち尽くす。
「ま・・・・・・、まさか、これが五右ェ門だってェのか!」
「だろーな。五右ェ門、五右ェ門ちゃん、とりあえずほどいてあげっから落ち着い・・・・・・、」
ガハウゥッ!
赤い口と牙が閃く。ルパンの手がもう少し伸びていたら、手首から先がなくなるところだった。
「のわー!!」
「お前が落ち着けよ。食われてねえだろ。」
「ば〜かやろお前、俺ッさまだから今のはかわせたんだぞ! あーこわ!」
「おい五右ェ門! 分かるか、とりあえず暴れるのはよせ。首輪に代えてやるから。」
「あそーね、五右ェ門ちゃん、じっとして・・・、のわー!!」
「お前な、学べよ!」
どうやら狼には五右ェ門の自覚や記憶がないらしい。すったもんだの末、催眠スプレーで獣を眠らせ、やっとのことで首輪をつ
けることができた。床に腹をつけ伸びてしまった狼を眺めながら、二人はへたり込む。周りを白銀の毛がふわふわと舞った。
「・・・・・・どーするよ次元。」
「様子を見るしかねえだろうな。五右ェ門の奴、どうもこうなることを予想してたようだし。」
狼ってのは何食うんだ、と次元が立ち上がった瞬間、獣の体からまたあの光が溢れた。
「あ、」
ほわわん、と広がる七色の輝きに続いて、五右ェ門の姿が現れる。まだスプレーが効いているらしい、首輪をつけた人間の姿
で俯せて眠る侍は、今しがた狼が着物を嫌がって暴れたせいで、ほとんど半裸の状態だった。裸の尻から確かに生えている
立派な尻尾を、二人はまじまじと見つめる。
「・・・・・・ま、起きたら事情聞こーか。」
「やれやれ・・・・・・。」
毛布をかけてやりながら、次元はため息をついた。
*
「魔女ぉ!?」
「そうだ。」
乱れた着物を直しながら、五右ェ門が頷く。ほどなくして目覚めた侍を、ルパンと次元は囲んでいた。本人の希望により首輪は
つけたままだ。
「ハンガリーの山奥で修業中に出会った。己の弱さに打ち克つ術を授けてやるというのだ。」
「かわいこちゃんけ?」
「年寄りだ。」
「黙ってろルパン。――― それで?」
帯を侍に渡してやりながら、次元が先を促す。
「どうしてこんなことになったんだ? その婆さん怒らせでもしたのか。」
「いや。これこそが、己に打ち克つ術なのだそうだ。」
「何だそりゃあ。狼になったら強くなるってェことか?」
「拙者にも分からぬ。魔女はそれ以上言わなかった。」
「んじゃこの術はどーやったら解けんの?」
「・・・・・・。」
なぜか五右ェ門は口をつぐんだ。しばらく中空を睨んだのち、ぼそりと言う。
「・・・・・・知らぬ。」
「・・・・・・。」
顔を見合わせる二人をよそに侍は着付けを済ませ、「とにかく」と床に座り込んだ。
「いつまた狼になるか分からぬ。人に危害を加えぬよう、しばらく繋いでおいてくれ。」
「おいおい、ずっとこのままだったらどうする気だ。」
「魔女の言を信ずるなら、拙者が己に打ち克てば変化は解けるはずだ。必ずや解く。それまでの間、しばらくこうしておいて欲し
いのだ。」
「五右ェ門、お前・・・・・・、」
「ま、いいんでないの? 今は仕事もないし。ほかならぬ五右ェ門ちゃんの大事な修業だ、なあ次元?」
次元を遮った相棒の口調は滑らかだったが、何か考えがあるのが眼で分かる。釈然としないまま、次元は肩をそびやかした。
「んじゃな次元、俺行ってくっから。」
部屋を出た途端、ルパンはさっさと玄関へ向かう。
「魔女のとこか。」
「あた〜り♪」
車のキーをチャランと鳴らし、ルパンはドアを開けた。
「居場所は分かるのか。」
「ま何とかなんだろ。わりっけども五右ェ門の世話、頼むぜ。」
「ありゃあ何か隠してるな。」
「あの様子じゃ、五右ェ門よりもまじないかけた婆さんに直接聞いた方が早そうだろ。じゃな、狼に食われるなよ。」
「赤ずきんちゃんをやる気はねえよ。」
笑いながらルパンは出て行った。リビングに戻ると、座禅を組んでいた侍が顔を上げる。
「ルパンは出かけたのか。」
「ああちょっとな。さてと、お前、もう少し動けねえと困るだろ。そのままじゃ用も足せねえ。」
「かたじけない。」
考えた末、リビングからバスルームまでロープを渡し、そこに首輪を繋ぐことにした。これで侍の可動域がだいぶ広くなる。
「五右ェ門よぉ、」
ロープの端を柱にくくりつけながら、次元は尋ねる。
「お前さん、狼になってる最中の記憶はあんのか。」
「いや、全くだ。」
「やっぱりか。お手柔らかに頼むぜ。ルパンなんざ食われかけたからな。」
「・・・・・・。」
首輪の紐をロープに架けようとした手を止め、「次元」と侍は口を開いた。
「お主も気をつけてくれ。狼の時の拙者は、拙者ではない。」
「そうらしいな。まあそう深刻になるな。うまくやるさ。」
すぐに後悔することになるとも知らず、次元は気楽に答えた。
*
「おいイシカワ! お前いい加減にしろよ!」
びしょびしょの床を拭きながら、今朝三度目の怒声を上げる。ルパンが発って十日が過ぎていた。自分で拘束しろと言ったくせ
に、変化した途端、狼はこの拘束を解けといって大暴れする。なるほどこの獣が五右ェ門の人格を備えていないのはよく分か
った。五右ェ門でないものを普段どおりに呼ぶのも何なので、イシカワと勝手に名付けた。
イシカワが何も食べないのも悩みの種だ。次元の前では警戒を決して解こうとせず、水にも飯にも全く手をつけない。人間に戻
るたびに「大丈夫だ」と五右ェ門は言うが、日に日にげっそりしていくように次元には見えた。狼でいる時間がだんだん長くなっ
ているのも気になる。
「おいイシカワ、朝飯だ。」
がるるるる・・・、と唸る狼に声をかけ、次元はしゃがみ込んだ。今回はイシカワに変化して二日近くになる。水分だけでも取らせ
たかった。ハムや卵やトーストを床に並べ、牛乳を、狼の平皿と自分のコップにも注ぐ。
「お前が食べないのは勝手だがな、俺も勝手にさせてもらう。今日はここで食うぜ。」
唸る狼の目の前に座り込み、次元は朝飯をたいらげ始めた。牛乳を飲む瞬間、狼の唸り声がほんの少しだけ小さくなる。
「飲みたきゃ飲みな。お前の皿はそれだ。」
平皿を見つめ、それでもイシカワは飲もうとしない。もう一押しだ。平皿をひょいと取り上げた。
「いらねえんなら俺がもらうぜ。」
ごく、と一口飲んだ途端、
わぅーん・・・・・・、
訴えるような声で獣が鳴く。黙って皿を置いてやると、くんくんと匂いを嗅ぎ、それからイシカワは牛乳を舐め始めた。
「おおっ、飲んだな! いい子だ。」
思わず頭を撫でかけると、がぅ、と狼が牙を剥く。慌てて手を引っ込めた。
「この野郎、手間かけやがって。」
悪態をつく次元の顔には、久々の笑みが浮かんでいた。
*
牛乳の件を機に、イシカワの雰囲気は少しずつ柔らかくなっていった。次元が近づいても威嚇しなくなり、ものも食べるようにな
った。あの朝以来、狼と一緒に床で食べるのが次元の習慣になっている。肉食かと思っていたが、イシカワは案外何でも食べ
た。特に梅干しが大好きなのはさすが五右ェ門といったところで、塩分を採り過ぎぬようほんのちょっぴりしかやらないそれを、
イシカワは嬉しそうに食べた。
「今度は納豆なんかも試してみるか。」
食後の一服をつけていると、玄関のドアが開く音がした。誰かがドタバタと走ってくる。
「ルパンか? どうだった、首尾は・・・・・・、」
「次元!」
入ってきたルパンを見た瞬間、次元は全てを悟った。
「何も言わずに俺を縛ってちょーだい!」
「お 前 も か よ !!!」
獣の耳をつけたルパンが、ロープを放って寄越す。首輪だけでは足りないことが次元にも分かった。この耳は十中八九、猿の
類いだ。
「・・・ったく、ミイラ取りがミイラたぁこのことだ! どうすんだルパン。動物二匹の世話なんざ俺はごめんだぜ。」
にょほほほほ、とルパンは笑う。
「見くびってもらっちゃ困るな。ただじゃやられなかったぜ、俺は。」
「どういうことだ。」
ふん縛る手を止め、ルパンを見た。大きな耳が得意そうにピコピコと動く。
「明日になれば教えてやれるさ。おい五右ェ門、もう少しの辛抱だからな・・・って、こいつ、あれからずっとこの調子なのけ?」
まるで狂ったように吠え立てる狼をルパンが顎で指す。相棒が帰って来た瞬間からイシカワは殺気立ち、最初の頃を彷彿とさ
せる暴れっぷりだった。
「いや、ここ数日はおとなしかったんだがな。人見知りしてんじゃねえか。」
夜になって、その理由は分かった。
ウオオオーン! ウオオオーン! ウオオオーン!
キキーーーー! キキキキキキ! ウキーウキー!
「勘弁しろよお前ら! いつまでやってんだ!」
耳栓を探しながら、次元は叫んだ。ルパンが変化した途端に始まったイシカワ対チンパンジーの壮絶な威嚇合戦は、夜半を過
ぎても治まらない。獣化した途端に人格を失うのはルパンも同じで、そこにいるのはただの猿と狼だった。同じ部屋に繋いだこ
とを深く後悔したが、興奮しきった彼らにはもう近づくこともできない。離してあるので血みどろの争いは何とか回避できたが、
万一何かあったらと思うと部屋を出ることもできなかった。明日だ、とにかく明日になれば。栓を耳に詰め毛布を引っかぶって、
次元は呻いた。
*
「次元、ねえ、起きてったら!」
ゆさゆさと揺り起こされ、目を開ける。起き抜けにあまりありがたくない顔があった。不二子だ。
「何だ、何しに来やがった。」
「ルパンに呼ばれて来たのよ。すごいお宝を見つけたって。あなた動物園でも始めるつもり? ルパンはどこ?」
「そこだ。」
部屋の隅で縛られたまま寝ているチンパンジーを指さすと、呆気に取られたのち不二子は笑い出した。
「いやね次元、いくら何でもルパンが聞いたら怒るわよ。」
「大丈夫だろ。猿になってる間、ルパンの意識はねえんだ。五右ェ門もな。」
「五右ェ門?」
反対の隅で丸くなっている獣を指差した。女がこわごわ近づき、覗き込む。
「これ・・・・・・、狼?」
「五右ェ門だ。」
「・・・・・・!?」
まだ信じられない様子だが、ともかくルパンが現れるのを待つことにしたらしい。ひどい有様の部屋をげっそりしながら片付け
る次元を不二子は決して手伝わなかったが、代わりにコーヒーを淹れてくれた。二杯目を飲み終えた頃、チンパンジーの体か
ら例の光が溢れ出す。
「お、ルパンが先か。」
「な・・・・・・、」
絶句する女の目の前で、七色の光の中からルパンが現れた。もちろん耳と尻尾つきだ。
「おはよー不二子ちゃん、来てくれたの〜。」
「本当だったのね・・・・・・。」
「百聞は一見にしかずだな。」
ようやく信じたらしい不二子に簡単な経緯を説明する。そうこうする内にイシカワの体も光り始めた。耳つきの五右ェ門が「不二
子か、久しぶりだな」と身を起こす。
「何てこと・・・・・・。」
「で? 元に戻る方法が分かったんだろ、ルパン。早く教えろよ。」
「ルパン、お主その耳・・・・・・、」
気づいて驚く侍に、ルパンはウインクしてみせた。
「婆さんに聞いてきたぜ、五右ェ門。ほんとかどうか確かめるために、俺にもまじないをかけてもらったんだ。不二子ちゃん、ち
ょ〜っと来てくれるかな。」
「何よ。」
「いやね、実はその婆さん、す〜ごいお宝持っててさ、俺の耳の後ろにチップがついてるんだけっども、取ってくんない?」
「――― お宝!?」
その一言で女の目の色は変わった。ルパンに駆け寄り、身を屈めて猿の耳をいじり始める。
「・・・・・・ないわよルパン、チップなんてどこに――、」
――― ちゅ。
ゲッと呻いて次元が目を覆うのと同時に、平手打ちの高い音が上がった。
「何すんのよルパン!」
「まままま待ってよ不二子ちゃん、これには深〜い訳が・・・・・・、」
慌てて弁解するルパンの体から、ピンクのキラキラした光が溢れ出した。今までのとは趣が違う。次いで、もやのようなものが
立ち込めたかと思うと、茶色い耳と長い尻尾がほわん、とかき消えた。
「あ・・・・・・!」
「つまり、こーいうこと。」
驚く三人にニシシシ、とルパンは笑ってみせる。
「ったくあの婆さんも少女趣味が過ぎるぜ。このまじないはな、大好きな子とちゅーすると解けるの。不二子ちゃん、これほどい
てくれっかな。」
「そういうことだったの・・・・・・。」
なぜか思慮深げに不二子が呟く。騙されて怒ったのかと思ったが、そういう訳でもないらしい。ロープを解きながら、女は神妙
な顔でルパンに尋ねた。
「ねえルパン、それじゃ五右ェ門も・・・・・・、」
「ああ、好きな子とキスすれば元に戻るって寸法さ。『己に克つ』なんて持って回った言い方しや〜がって。なあ五右ェ門。」
「・・・・・・。」
――― 好きな相手と、キスだと?
振り返り、次元は侍を見た。首輪をつけたまま胡座をかいて、男はそっぽを向いている。ゆっくりとそちらへ歩み寄り、重い口を
開いた。
「・・・・・・五右ェ門。お前、好きな女がいたのか。」
「・・・・・・。」
侍はなぜかぶすっとしている。固く結んだ唇を開き、一言だけ吐き捨てた。
「おらぬ。」
「・・・・・・いねえのか? しかしそれじゃまじないも解けねえだろ。一体どうす・・・・・・、」
「ねえルパン!」
突然、不二子がルパンの腕を取り、ぐいぐい引っ張り始めた。
「元に戻してあげたんだから、言うこと聞いてもらうわよ。わたし前から欲しかったお宝があるの。今すぐ一緒に来て。」
「いやあの不二子ちゃん、今はな五右ェ門がな、」
「いいから!」
「不二子!」
慌てて声を上げたのは、なぜか五右ェ門だった。「何よ」と女に返されて、口ごもる。
「その・・・・・・、すまぬルパン、次元。しばし不二子と二人にさせてくれぬか。」
「何だあ?」
ルパンが不審気に眉をひそめる。
「なぁんでまた急に・・・・・・、ま〜さかお前、不二子が好きなんじゃ、」
「それはないわ。」
「それはない。」
「・・・・・・。」
一瞬の沈黙の後、雄弁な面持ちで不二子は五右ェ門を睨みつけた。「まあいいわ」と腕組みを下ろす。
「ルパン、次元、ちょっと出てて。」
「なんだなんだなんだあ!?」
とうとう放るようにして、二人は部屋の外へ追い出されてしまった。
「・・・・・・何なんだあいつら。」
さっきからどうにもムカムカする。理由は分からなかった。「次元」とルパンが声を潜める。
「五右ェ門に好きな子がいないってのな、あれ嘘だ。」
「何だと?」
「婆さんが言ってたんだ。ほんとに誰にも惚れてない奴は、あのまじないにかからない。」
「・・・・・・。」
「ま、不二子ちゃんにもなんか考えがあるみたいだし、俺ちょっと付き合ってくるわ。お前は五右ェ門の好きな子聞き出して、ち
ゅーさせてやれ。しっかり頼むぜ。」
「いや、しかし・・・・・・、」
ガチャリ、とドアが開き、不二子が出て来た。
「お待ちどうさま。話は済んだわ。」
「済んでおらぬ!」
部屋の中から五右ェ門の声がする。意に介さず、不二子はルパンの腕を取った。
「さ、行きましょルパン。」
「不二子!」
悲痛な声を出す侍を振り返り、女はピシリと言い渡す。
「がんばんなさい、五右ェ門。」
「・・・・・・!」
打ちひしがれた侍と不機嫌なガンマンを残して、二人は出て行った。
「・・・・・・で、誰なんだ?」
煙草を取り出し、次元はソファにどっかと腰を下ろす。
「――― 何がだ。」
「とぼけなくていいぜ。お前に惚れた女がいるのは分かってる。まじないにかかったってのはそういうことなんだろ。」
「・・・・・・。」
五右ェ門は黙っている。苛立ちを紛らすように、次元は煙を勢いよく吐き出した。
「心配すんな、あいつらには内緒にして俺が連れてきてやる。」
「いらぬ世話だ。おらぬと言ったらおらぬ。」
次元の目を見ずに、侍はうそぶいた。まったく、嘘の下手な男だ。「そうかい」と次元が呟いて会話は終わった。
*
再び五右ェ門は狼と化し、それから五日が過ぎた。やはり狼の期間が長くなってきている。侍のあの頑なな態度とは裏腹に、
イシカワの方はだいぶ次元に懐いていた。こんなに野生が失われてしまっていいのだろうかと考えるたびに、失うも何もこいつ
は元々五右ェ門だと思い返し、鬱々とする日々が続いている。
ある夜、いつものように床で一緒に食事をしながら、次元はつい呑み過ぎた。何となく呑まなければやっていられない気分だっ
たのだ。
ふと、首にかかる重みに気づいて目が覚めると、床の上だった。眠っちまったのか、と身を起こそうとして、仰天する。
「イシカワ・・・・・・!」
自分の首にのへっと乗っているのがイシカワの顎だと気づいた瞬間、恐怖より先に嬉しさが来た。ずいぶん気を許してくれたも
んだな。目の前で寝ちまう俺も俺だが。
頭を撫でてもイシカワは嫌がらない。撫でながら、つらつらと次元は考えた。心の奥で、ずっと何かが燻っている。この鬱屈に
は原因がある。一体何だ。
五右ェ門の顔がぼんやりと浮かぶ。
たぶん、あいつが水臭い隠しごとをしやがったからだ。好きな女がいるならいると、隠さず言えばいいだろう。そうすれば俺だっ
て協力を―――、協力を・・・・・・、
やはり呑まないとやっていられない。イシカワをよいしょと動かして次元はグラスを取った。起こされた獣が不満そうに鼻を鳴ら
す。
――― もしもずっとこのまま、五右ェ門に戻らなかったら。
みぞおちの奥が、急に冷たく縮こまった。眠る狼に腕をやり、ぎゅうと抱き締める。
「・・・・・・早く戻れよ、お前。」
イシカワは片目だけ開け、すぐにつぶってまた寝てしまった。
*
一週間後、買い出しから帰ると、屈み込んでいる人間の後ろ姿が見えた。
「・・・・・・五右ェ門!」
思わず叫んだ次元の声に、耳付きの男が振り返る。久しぶりに見る五右ェ門の姿だった。袴に脚を通しながら、あの涼やかな
声で言う。
「戻るたびに素っ裸なのは、かなわんな。」
「はっは。イシカワが嫌がって全部脱いじまうからな。」
「イシカワ?」
「ああ、あの狼だ。『あの』って言ったってお前は知らねえか。調子はどうだ、五右ェ門。」
「うむ、問題ない。茶が飲みたい。」
「待ってろ。」
踊るような足取りで、次元はキッチンに駆け込む。我ながら可笑しいくらい安堵していた。よかった。五右ェ門だ。戻ってくれた。
茶を一口啜ったきり、首輪に繋がれて侍はボーッとしている。まだ混沌としているのだろう。そのままにしておいて買い出しの煙
草や酒をしまっていると、不意に口を開いた。
「――― 狼の時、拙者はどういう風なのだ。」
「どうって、」
振り返るとまともに目が合った。久しぶりに見る五右ェ門の顔の、何だかどこを見ていいか分からない。さりげなく視線を落とし、
「そうだな」と言葉を探した。
「・・・・・・最初はひどかったぜ、暴れるわ飯も食わねえわで。だが近頃はだいぶ懐いてきた。撫でてやると喜ぶし、梅干しせがん
できたり・・・・・・、まあ、慕ってくれてんじゃねえか。」
「・・・・・・慕って・・・・・・、」
実は最近、毎晩すり寄ってくるイシカワを抱っこして眠るのが、次元の習慣になっている。何となくそれは伏せた。俯いてしまっ
たので侍の表情は窺い知れないが、何事か考え込んでいるのは分かる。やがて上げた顔が、ほんの少し赤いような気がした。
侍が口を開く。
「・・・・・・拙者の、刀はどこだ。」
「斬鉄剣か? お前の部屋だろ。取ってくるか。」
「――― 頼む。」
肌身離さぬ愛刀だ。側にないと落ち着かないのだろう。深く考えることなく次元は刀を携え、リビングに戻った。「ほらよ」と渡し
てやった途端、
「でやっ!」
「ああっ!」
太刀筋一閃、首輪とロープがぱらりと落ちる。身を翻して五右ェ門は窓から飛び出した。
「・・・・・・しまった!」
咄嗟に反応できず、慌てて後を追う。何が何だか分からなかった。一体どうしたってんだ、まじないはまだ解けてねえだろう。そ
れとも俺が何か変なことを言ったのか? 通りに出ると、一ブロック先を走る男の姿が見えた。
「五右ェ門!」
侍は振り返らない。逃げることにかけては次元もプロだが、足は五右ェ門の方が速かった。死にもの狂いで追っても差は縮ま
らない。とうとう息が切れ、足がもつれて次元はすっ転んだ。
「くそ・・・・・・、五右ェ門!」
背中はどんどん遠くなってゆく。路地に消えてしまうと思った瞬間、
「あ・・・・・・!」
男の体から七色の光が溢れるのが見えた。人の形が消えたかと思うと、光の中から狼が現れる。途端にくるりと回れ右をして、
狼は次元の方へ駆け戻って来た。
――― ウオーン!
「イシカワ!」
尻尾を振って獣は次元に飛びつく。地べたに倒され顔中を舐められまくって、次元は混乱のままに叫んだ。
「・・・・・・何だってんだ、一体!」
*
イシカワが五右ェ門に戻ったのは、その一週間後だった。食事を持って行った次元の目の前で、獣の体が光を発し始める。人
の姿に戻り、次元を見るや否や侍は驚きの声を上げた。
「――― ややっ!」
「何が『ややっ』だ。」
素っ裸で面食らっている侍を、次元は腕組みして見下ろす。
「ここにいる算段じゃなかったんだろうが、あいにくだったな。」
「・・・・・・。」
「服着ろよ」と侍を促し、自分は椅子を引き寄せて腰かけた。
「なぜ逃げた、五右ェ門。」
「・・・・・・。」
「当ててやろうか。女だろ。」
煙草に火をつける。この一週間、ずっと考えていたことだ。
「やっぱり好きな女がいるんだな、お前。誰にも見られずにまじないを解こうとして、こっそり会いに行くつもりだった。違うか。」
黙って服をつけ、五右ェ門は次元を見もせずに立ち上がった。尻尾だけがぶんぶん振れている。これがイシカワなら嬉しがって
いる徴候のはずなのだが、目の前の侍本人にそんな気配は微塵もなかった。そっぽを向いたまま、ぼそりと言う。
「・・・・・・頼む次元、行かせてくれ。」
「理由を言えよ。」
侍の瞳が揺らぐ。何か言えない秘密を、この男は抱えている。拳を握り息を詰めて、どこか自棄のように侍は言った。
「そうだ。女だ。」
「―――!」
やっぱりか。勢いよく次元は立ち上がった。
「分かった。――― 悪かったな、今まで気がつかなくて。」
「じげ・・・・・・、」
首輪を外して放り投げ、侍を置いてリビングをずかずかと出る。
「――― 勝手にしろ。」
バタンとドアを閉めた。
自室に戻り、ベッドに身を投げ出す。間もなく玄関のドアが開く音がして、家の中は静かになった。
*
→UNDO(後)へ ※後編はエロありです
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