トリガー

                                              漢侍受祭 お題「恋」







 軽い祝杯のつもりだった。

 ヤボ用を済ませたらすぐ戻る、とルパンは言った。あてにせず先にグラスを鳴らしたのは結局正解で、
2時間たった今も、案の定あのモンキー面は姿を見せない。
 思いのほか早く酔いが回ったのだけが誤算だった。大成功に受かれ過ぎた。
 うまく働かなくなった頭で、次元はぼんやり後悔し始めていた。向かいのソファでふらふらと揺れる侍も、
居心地が悪そうに見えるのは気のせいか。

「・・・・・・遅いな、ルパンは。」

 思い直したように居住まいを正し、五右ェ門がぼそりと呟いた。先刻までの楽しげな様子はなりを潜め、
神妙な目つきで酒瓶を見つめている。真っすぐな睫毛が不意に動く。
 「ああ」と短く答え、次元は帽子を押し下げた。これ以上見ているとやばい。
 またか、と自分に毒づく。衝動はいつも急にやって来た。

 何がこんなに俺を高ぶらせやがる。

 何百回となく浮かべた問いを押しやり、グラスの氷を噛み砕いた。神に祈るような気持ちで、何も考える
なと念じる。
 侍が、水差しへふらりと手を伸ばした。緩く開いた襟から少しだけ覗いた首元が、はっとするほど赤い。

 勘弁してくれ!

 叫ぶ代わりにボトルをひっ掴んだ。「まだ飲むのか」と尋ねる声には応えず、なみなみとバーボンを注
いだグラスに手を伸ばす。

「次元、」

 いきなり手首を掴まれ、次元はほとんど喘いだ。

「飲み過ぎではないか。ほどほどにしろ。」
「・・・・・・・・・・。」

 五右ェ門の手が熱い。
 何か言おうとしてせり上がった塊は、喉の所で止まった。
 いま吐き出すと恐ろしい言葉になる。

 突然鳴り出したベルが、静寂を裂いた。

 五右ェ門が立ち、覚束ない足取りで電話へ向かう。二言三言、言葉を交わし、すぐに受話器を置いた。

「・・・・・今夜は帰らんそうだ。」
「そうか。どうせ不二子だろ。」

 あの野郎。いて欲しい時にいやがらねえ。

 悪態を飲み込み、グラスを半分ほど空けた。五右ェ門がじっと見ている。ちらりと見やり、「おまえ、もう
休め」と声をかけた。

「・・・・・大丈夫か、お主。」
「おまえこそ真っ赤じゃねえか。俺は飲み足りねえんでな。心配しなくても便所くらい1人で行けらぁ。」
「・・・・・そうか。」

 しばらく立ち尽くしてから、「ならば、先に休むぞ」と侍が呟く。

 バタン、とドアの閉まる音と同時に、次元は大きな溜め息を漏らした。グラスの残りを一気に飲み干して、
頭を抱える。

 どうしようもねえ・・・・・。

 最初は、匂いだった。
 無造作に腕を突っ込んだ袂から、戦いの最中合わせた背中から、ふわりと漂う匂いに気を取られるこ
とがあった。時折、訳もなく胸を掻きむしられ、その理由とあの匂いが結び付くまでに随分かかった。愕
然とした。飛び出して闇雲にマグナムを撃った。もう遅かった。

 どこがいいんだ、あれの。

 頭を抱えたまま、真剣に考える。ほっとけばいつまでもそうしている座禅姿、そっけない応答、たまに見
せる悪ぶった笑み。ただの仲間だった頃と何も変わらないのに。

 冗談抜きで胸が痛い。

 再びグラスを取り、空だと気付いてソファに寝転んだ。
 何かのバチだとしたら、よほど重い罪だ。思い当たるフシは山ほどある。数えていれば、あの侍の幻影
を追いやれるだろうか。

 烏がゴアァと鳴いた。



     *



 別にどうということはない。

 寝床の上に端座し、五右ェ門は闇に目を見開いていた。窓から差し込む月明かりが、妙に体をざわつ
かせる。逃れるように壁に向かい、意識を集中させた。自分を無にする時にいつも訪れる、あの開かれた
感覚を待つ。

 掌が熱い。
 ついさっき掴んだ男の手首の感触が、右の掌から離れない。強く握るとそれは、熱を帯びてじんじんと
疼いた。

 胡座を解き、立ち上がった。
 どうということはない。ただ、無我に没することのできない今、ここに安々と寝転がる気にもなれないだ
けだ。

 ノブの音がやけに響いた。



     *



 案に相違して、部屋は既に暗かった。もう寝ているのだ。
 それならよい。特に用はない。
 自分に言い聞かせ、ドアを閉めようとして、冷たい風に気づいた。窓が開いているらしい。
 少し迷ってから、室内へ足を踏み入れた。
 幾分湿ったレースを押しのけ窓を閉めると、静寂が訪れる。

 そのまま部屋を出るつもりだった。
 ソファの脇で、足が止まった。

 どうして帽子を取らないのか分からない。頭の上で組んだ腕を枕にして、男は眠っていた。鼻まで下が
った鍔の下から、ぐうぅといびきが聞こえる。

 来るのではなかった。

 湧き上がる後悔と裏腹に、体はその場を離れない。眼下で眠る男の、上下する腹のあたりにじっと見
入った。

 華のない、むさくるしい、ただの男だ。
 どうかしている。
 見ているだけで、こんな気持ちになるなど。

 とめどなく溢れ出す感情はただただ不穏で、その正体を五右ェ門は知りたくなかった。眠る男の息遣い
に、軽く開いた唇のシルエットに、頭の中の警鐘がうるさく鳴る。不穏な感情が、はっきりとした形を取り
始める。

 甘い、ような。

「・・・・・・!」

 我に返り、頭をぶん、と振った。たったいま像を結んだ欲望を引きちぎる。
 踵を返し、ドアへ向かった。

「・・・・・待てよ。」

 凍りついた。
 次元の声は、静かだった。

 背を向けたまま「起きたのか」と返す。へっ、と笑い声がした。

「見くびられたもんだな。おまえなら起きねえのか。」

 こんな近くで、寝顔を忍び見られて。
 拳が、羞恥に震えた。

「・・・・・すまぬ・・・・・、」

 乾いた声が出る。

「・・・・・ちょっと様子を見に来ただけだ。寝ているのならよい。」

 逃げるように床を蹴り、ドアを開けた。

「待て。」

 起き上がる気配がする。

「・・・・・何か言いに来たんじゃねえのか。」
「・・・・・・・・・・。」
「言えよ。」

 死んでも言えるか。
 勢いよくドアを閉じた。

 途端に口をついて出た。

「好きだ、」

 放たれた言葉に、意味が追い付かない。
 ドアに背を押し付け、もう一度吐き出した。

「・・・・・好きだ・・・・・!」

 天井を見上げ、一瞬、瞑目する。
 もう駄目だ。
 振り返り、ドアを開けた。

 次元は目の前にいた。

「俺もだ。」

 抱きしめられ、顔が見えなくなった。
 男の帽子がことん、と落ちた。



     *






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