変身
serial_5









酒の味がしねえ。

縁側に座り、柱にもたれて次元は手の中のグラスを弄んだ。緩く溶けた氷が、ミシ・・・・・・、と微かな音を立てる。
庭の桜はすっかり様変わりし、生温い夜風に葉をざわめかせていた。恐ろしい勢いで雲が流れてゆく。まるで台
風前夜だ。どこか地に足のつかないような、掻きむしられるような高揚を持て余し、次元は落ち着かなく杯を重ね
た。

回復した侍は、言葉少なに礼を言った。
「おう」しか言わずロクに顔も見ず、次元はそそくさとその場を離れた。それからは一度も会っていない。

突風にもがれた桜の若木が、鼻先をかすめた。
枝をしならせて踏ん張る大木を眺め、それが満開の花をつけていた頃のことをぼんやりと思い出す。確か、互い
の獲物を試し合った。侍が笑っていた。特にどうということもなかった。
いや、少しは何かあったか?
思い出そうとして、それから次元は首を振った。意味のないことだ。今となっては。

こういう面倒な感情に覚えがない訳じゃない。
ただ今度ばかりは、笑い飛ばしてうまく忘れることができなかった。
俺は     

ぎし、という音に思考が中断した。
目をやった先、縁側の端に、侍が立っている。一瞬、確かに侍は、しまったという顔をした。

      どこ行くんだ、こんな時間に。」
「・・・・・・ちょっと・・・・・・、修業だ。」

不承不承という体で、こちらへ歩いて来る。体の中でぎゅん、と音がして、何かが駆け巡り始めた。
目の前で足を止める侍が、つい数日前とはまるで別人のように見える。愛想もくそもない仏頂面が、胸を締め付
ける。
苦し紛れに視線を逸らすと、侍が携えている荷物が目に入った。不自然な大きさに、突然、悟る。

こいつは二度と戻って来ない。

月が隠れた。
ぬるく不穏な闇の中、うつむく侍を黙って見つめた。全身の細胞がやかましく次元を駆り立てる。うるせえ、どうし
ろってんだ。ありったけの力でねじ伏せた。

      そうか。じゃあな。」

誰か別の人間が喋っているようだ。
「うむ」と頷き、侍は一度だけ次元を見た。
すぐに目を伏せ、踵を返した。

      一日待てねえか、五右ェ門。」

突然、闇の中から声がした。
足を止めた五右ェ門の向こうに、見慣れた男の脚が現れる。

「急で悪ぃんだけっどもな、例のお仕事、明日になりそうなんだわ。」

雲が流れて、再び月が出た。
ニヤリと笑うルパンの口元が、薄明かりに浮かんだ。



     *



麓で生温く吹きすさんだ暴風は、山頂手前で氷混じりの爆風に変わった。ほんとにここは日本かよ、と呟く歯の根
がもう合わない。同じ防寒着の相棒がどうして黙って立っていられるのか、不思議でならなかった。

「・・・・・・お前大丈夫かよ、次元。」

木立の陰から車道を窺うルパンが、妙に真面目な声で言う。白い息の塊がもうもうと流れた。

「知ってんだろが、寒いのダメなんだよ。」
「寒さの話じゃねえ。」
「じゃ何だ。」

問いには答えず、ルパンは「来たぜ」と呟いた。次第に大きくなる車のライトが、横殴りの氷粒を照らし出す。
ガレージに車が入るのを見届けてから、相棒と別れた。総髪の男がガレージから現れ、屋敷へ向かう。男を尾行
て忍び込むのはルパンの役目、次元は車の細工を、五右ェ門は退路の確保を、それぞれ任されている。


ガレージと呼ぶにはその建物は大きすぎた。悪趣味なアメ車の居並ぶその向こうに、貨物用のコンテナが積み上
げられているのが見える。冷たい空気に混じる微かな匂いに、次元は足を止めた。きな臭い。
後ろでカチリと音がした。

      !」

横ざまに飛んだ次元のすぐ後を、派手な火花がとっ散らかす。車の陰に転がり込むとマシンガンの音はやみ、代
わりに下品な笑い声がガレージに響いた。

「驚いたかァ? コソ泥よォ。」

雇われボディーガードというところか。窓に映るいかれたピンクの頭の男に向かって、「そうだな」と答えてやる。

「こんな雑な出迎えは初めてだ。汚え商売で儲けてんなら、もちっと真面目に警戒した方がいいぜ。」
「汚え商売はお互い様だ。どうせここのブツ目当てだろが。」
「誤解があるようだな。」

照準を合わせ、次元は笑った。

「おっしゃる通りの汚え商売だが、そこの鉄屑に興味はねえ。」

銃声一発で、コンテナのロックが開いた。ざ・・・・・・、と音を立てて夥しい量の銃が流れ落ちる。粗悪な安物だ。

「てめえ・・・・・・!」

マシンガンが火を吹いた。ハチの巣になってゆくアメ車の陰で、次元はあーあとため息をつく。雇い主が怒るんじ
ゃねえか、こりゃあ。じわじわ広がり始めた足元のガソリンに、裾を濡らさないよう腰を浮かした。銃声はあと十秒
もすれば一旦止むだろう。一秒あれば十分だった。
音が途切れたその瞬間に一発放つと、お定まりの悲鳴が上がった。息を詰めて窓に飛び込む。ガラス屑がまだ落
ちている窓の中へ、ライターの火を放り投げた。

轟音と共に上がった爆風が、次元を数メートル吹っ飛ばす。転がる体に、今度は冷たい氷雨が容赦なく吹き付け
た。まったく、さんざんだ。屋敷に向かって駆け出した、その時。

      !?

突然、上空に異様な気配を感じ、次元は立ち止まった。

      なんだ、あれは。

銃を構えることも忘れ、呆然とそれを見上げる。
木立から木立へ飛ぶように走るそれは、初め白狐か何かに見えた。ガレージへ向かっているらしい。よく知る男
だと気付くのに、しばらくかかった。

      五右ェ門!?

あれがか!?
悪鬼か羅刹の間違いじゃないかと、次元は何度も目をこすった。髪を逆立て、凄まじい形相で空を渡る侍は、既
に人ならぬ何かと化している。吹き付ける氷粒が、男の周りで霧散し白い炎に変わった。

「・・・・・・五右ェ門!」

やっと声が出た。侍が振り返りこちらを見た。のか? 虚ろな目は、次元を見ているようで見ていない。向こうに顔
を戻したが最後、あいつはあちら側へ行ってしまう、と思った。

      五右ェ門!!」

ドオオオォォォォオン!!!

ガレージから再び火の手が上がる。目の前が真っ赤になり、次いで男が吹き飛んで来るのが見えた。袴の色が
視界を塞いだ瞬間、衝撃に巻き込まれ、もんどりうって次元は地に転がった。



     *



ぱらぱらと何かが顔に当たる。
空を掻いて五右ェ門はもがいた。何も目に映らず、微かな音すら聞こえてこない。真っ白だった。どこまでも墜ちて
ゆく感覚に抗い振り回す腕が、ちぎれてどこかへ飛んでゆく。

      五右ェ門!」

不意に聞こえた声が、五右ェ門の腕をがっしり掴んだ。なんだ、腕はあるではないか。
目が覚めた。
見下ろす男の髭から、冷たい雫が落ちてくる。
・・・・・・生きていたのか、次元。
口を開く間もなく、体ごとぐいと引き上げられた。

      !」

突然、全身が発火した。
きつくきつく抱きしめる男から、煙草の匂いがする。濡れた髪に差し入れられた手が、耳に当たる男の頬が、燃え
るように熱い。

      行くな      、」
「・・・・・・!」

雨音に掻き消されそうな、小さな声だった。
何か言おうとして言葉は出ず、代わりに指だけが微かに動いた。気づいた次元がす、と身を離す。立ち上がり、
「あーあ」と大きな声を出した。

「まったく、ずぶ濡れだぜ。起きたか、五右ェ門。」
「・・・・・・うむ。」

頭を振り、立ち上がる。

「予想通り潜入は読まれてたが、ちと筋書きが変わったな。」

そうだった。ぼんやりした頭に、ようやく状況が入って来る。仕事のことを考えると急に熱が鎮まるのを感じ、五右
ェ門は大きな息を吐いた。

      ルパンは。」
「さあな。とりあえず、探すか。」

いつも通りの背中だった。



     *



頼むから、何も言わないでくれ。

背後の侍に請い願った。いま何か言われたら、全部吹き出してしまう。
爆発しそうな勢いで駆け巡る自らの血が、煩わしくて仕方ない。
ちきしょう、分かったよ。

      好きだ、五右ェ門。

荒ぶる熱を持て余し、背のマグナムに触れた。
冷たい相棒が、お前はバカだと言ったような気がした。









→つづく

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