罪と罰
serial_4









やたらすっきりした気分で、次元は目を覚ました。
七転八倒した昨夜が嘘のようだ。思いきり伸びをして窓を開けると、透き通った朝の光が、体中の血を勢いよく巡
らせ始める。途端に押し寄せてきた猛烈な空腹感に、軽く慌てた。ベッド脇の林檎をひっつかんで、齧りながら部
屋を出る。

「ふー・・・・・・。」

ハムとチーズとパンを牛乳で流し込み、ようやく人心地がついた。煙草をどこにやったかなと辺りを見回す。
そこで初めて、違和感に気がついた。

誰もいないのか、この家は?

リビングで見つけた煙草を咥え、そこら辺を歩き回る。廊下にも縁側にも庭先にも、人の気配はなかった。リビン
グのテーブルには、次のヤマに関する資料が積み上げられたままになっている。

ひょっとすると、こりゃあ・・・・・・、

手にした灰皿に、煙草を押し付けた。



     *



「・・・・・・は〜いはい・・・・・・、」

ノックの音に返ってきたのは、案の定しおれきった声だった。

「ようどうした、不景気な面だな。」

寝室にずかずか入りながら声をかけると、「誰のせいだと思ってやがんだ」とルパンは吠え、その勢いで激しく咳
き込み始めた。

「何して欲しいか言えよ。」

向こうを向いて丸まった背中を、ポンポンと叩いてやる。苦しい息の下、ルパンは「バ〜カヤロ」と吐き出した。

「こういう時はな、愛する女の顔が一番効くんだよ。」
「やめとけやめとけ、何もわざわざ悪化させるこたねえだろ。」
「そりゃどーいう意味よ。」

跳ね起きようとしてままならず、ふう〜、とベッドに倒れ込む。

「俺ァもうダメだ、次元、不二子にな、愛してるって言っといてくれ。」
「めでてえ奴だな、あの女が葬式に来るとでも思ってやがんのか。」
「あ〜・・・・・・、お前ね、楽しいか? そうやって病人の傷口えぐって。」
「なかなか悪かねえな。ほら、注文取るぜ。」

メモを取り出し、次元は笑った。



ドアを閉め、廊下の奥を見やる。少し考えてから足を踏み出した。
侍の部屋からは物音一つ聞こえてこない。ノックをするかどうか迷い、何を迷うことがある、と思い直した。ドアをコ
ンコン、と叩く。

「五右ェ門、いるか?」

返事はない。

     開けるぞ?」

果たして五右ェ門はそこにいた。はっとしたような顔つきで、ベッドに身を起こす。

「なんだ、いるんなら言えよ。」
「・・・・・・すまぬ。」

答える声が枯れている。やっぱりか、と思った。

「お前も風邪だろ。すまねえのはこっちだ。うつしちまって悪かったな。」
「別に、お主のとは限らん。」

素っ気なく返し、五右ェ門はまたすぐ横になる。

「相当悪いのか。」
「・・・・・・たいしたことはない。」

額に手をかざすと、侍は驚いたように目を開いた。熱のこもるこめかみが、ガンガン脈打っているのが分かる。熱
で虚ろな目が、少し泳いだ。

「ひでえな。」
「・・・・・・大丈夫だ。」

赤い顔をしてぎゅっと目を瞑る。急に湧き起こったある感興を無視して、次元は「どこが大丈夫だ」と呟いた。息を
つき、部屋を後にする。
自室に転がっていた体温計を取って戻り、ドアの外から「計っとけ」と声を掛け投げた。
毛布から出た手が、ぱし、と受け取るのが見えた。



     *



冷たいタオルの感触に、五右ェ門は目を覚ました。短い間にうとうとしていたらしい。

「・・・・・・9度5分もあったぜ。ルパンより高え。」

濡れた手をシャツで無造作に拭きながら、次元が言った。

「・・・・・・あやつも、伏せっているのか。」
「ああ。責任取って看病しろとよ。まったく、俺も暇じゃねえんだがな。」

ぼやく次元はなぜか頭にハチマキを巻いていて、どう見ても生き生きしている。目が合いそうになり、五右ェ門は
慌てて顔を背けた。

「・・・・・・すまぬ。」
「なに、ついでだ。順番にバタバタ倒れられるよりは、面倒がなくていい。」

次元が笑った。

「何かいるもんあるか、五右ェ門。」
「・・・・・・特にない。」
「遠慮すんな。ルパンなんかすげえぞ。オムレツにステーキにシャーベットだとよ。今がチャンスだと思って、無茶
苦茶言いやがる。」
「・・・・・・ひどいな。」

思わず笑った。次元が軽く咳をする。

「・・・・・・水くらい飲めるか。」

一つ、思いついた。

「では、卵酒を頼む。」
「卵酒ぇ?」

素っ頓狂な声を上げ、「どんなんだっけな」と次元は頭を掻いた。

「分からなければ、水でよい。」
「・・・・・・まあ、適当に調べるさ。他にはねえか。」
「うむ。」
「じゃあ、寝てろ。」

卵酒ねえ、と呟きながら次元は出て行った。
まるで今まで堰き止められていたかのように、胸の底から大きな息が出る。

     大丈夫だ、気づかれてはいない。

自分に言い聞かせ、五右ェ門は頭まで毛布を引き上げた。目を瞑っていればよい。顔を見なければよい。次元は
昨夜のことを知らぬのだ。
キッチンから、ガタンバタンと音が聞こえ始めた。



     *



     できたぜ。」

懐かしいような匂いに、五右ェ門は目を開いた。
毛布から顔を出すと、傍らに腰を下ろしながら、「味は保証しねえぞ」と次元が言う。

「・・・・・・かたじけない。」

起き上がり、カップを受け取った。口を付け少し啜る様を、男がじっと見守っている。何も考えぬようにして、熱い液
体を飲み込んだ。

     うまい。」

ほっとつく息と共に、思わず言葉が漏れた。甘くてまろやかな温かさが、胸を満たしてゆく。

「・・・・・・ほんとか。」

次元が、嬉しそうににんまりした。

     !」

目にした瞬間、記憶が吹き出した。
もう駄目だ。

「・・・・・・苦労したんだぜ。『卵酒』で調べてみたんだが、いろんな種類がありやがる。お前のことだから、日本酒
がベースだろうと思ってな・・・・・・、」

気を良くして語り出す次元の口元を、五右ェ門は見つめ続けた。
     あのにんまりした口に、ついほだされた。

「・・・・・・砂糖の量も、レシピによって全然違うしな。少し甘すぎやしねえか、それ。」
「いや、ちょうどいい。」

     拙者の髪がお主の頬にかかりそうになって、少し慌てた。

「・・・・・・泡立て器なんてものはここにはねえしよ。前にルパンがミキサー使ってたのを思い出してな・・・・・・、」

     唇を押し当てても、お主はピクリともしなかった。

「・・・・・・叩き起こして、ミキサーどこだって聞いたんだが、」
「ひどいな、お主も。」

笑ってみせる。熱い唇だった。少しかさついていた。身を離してもお主は眠り続け、ただ、一瞬、

「・・・・・・ルパンの奴、『今日はフルコースは無理だ。ポタージュはいらねえ』だとよ。」
「ははは。」

      一瞬、お主は、にんまりと笑ったのだ。

胸のつかえを押し流すように、熱い卵酒をごくごくと飲んだ。「そんなにうまいのか、それ」と次元が尋ねる。

「ああ、うまい。」

泣きたいような気持ちで、五右ェ門は笑った。

「どう考えても、まずそうなんだがな。」
「お主、味見しておらんのか。」
「なんだか気味悪くてよ。」
「・・・・・・飲んでみるか。」

カップを渡すと少しためらった後、次元はおそるおそる口をつけた。

「おえー、何だこりゃあ。」
「うまいではないか。」


     好きだ、次元。


笑いながら、これは罰だと五右ェ門は思った。こんなに苦しいと知っていたら、あの時、何としても抑え込んだのに。
付き返された卵酒を、すべて飲み干した。

     馳走になった。礼はいずれする。」
「いらねえよ。昨日の礼だ。」
      、」

思わず顔を見た。
「ついててくれたんだろ」と次元がゴニョゴニョ言う。

「・・・・・・ついていたという程ではない。時々様子を見に行っただけだ。ルパンも世話していた。」
「・・・・・・まあ、ありがとよ。」
「・・・・・・いや。」

耐え切れなくなって、毛布に潜り込んだ。「じゃあな」と言って、次元が立ち上がる。
バタンと閉まるドアの音は、激しい鼓動にほとんど掻き消された。



     *



     どうかしてんじゃねえか、俺は!

閉じたドアに寄り掛かり、次元は呻いた。額に手を当て、落ち着けと自らに言い聞かせる。

     あいつ、前からあんなだったか!?

どうしてこんな風になるのか分からない。苦しげな侍の赤い顔に始終ドギマギして、まともに見ていることもできな
いなんて、悪い冗談か悪夢のようだ。

悪夢と言えば、あの夢だ。
さっき突然思い出した。やけにリアルな夢だった。まだ感触が残る気さえして、思わず唇に拳を当てる。
五右ェ門が、俺に、口付けをした。
あんな夢を見る自分の頭が信じられない。
卵酒を啜ろうとして少し尖らせた侍の唇を、不意に思い出す。

     勘弁してくれ! そんなはずがねえ!


次元は頭を抱えた。

ドアの向こう、布団の中で、同じく頭を抱えている男がいるとも知らずに。









→つづく

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