風立ちぬ
serial_3









あいつ、風邪ひきやがんの。
五右ェ門にそう告げるルパンは、なぜか少し楽しげに見えた。

「こ〜んなにあったかくなってから風邪ひくなんてよ、まったく、自己管理ってもんがなっちゃいねってんだよな♪」

ほい、と体温計を投げられ、五右ェ門は少々面食らう。

     なんだ?」
「次の下見、あいつの代わりに俺行ってくっからさ、時々様子見てやって。水飲ませて転がしとくだけでいっから
よ。」
「・・・・・・。」

承知とも不承知とも言わない侍にウインクを一つ投げてよこし、「んじゃ、よろしく〜♪」とルパンは出て行ってし
まった。

「・・・・・・。」

知らず重いため息が出る。
進まぬ足を引きずるようにして、五右ェ門は病人の寝室に向かった。



     *



窓から差す強い光が、床を明るく切り取っている。部屋の中はムッとするくらいの暑さだったが、眠る次元には厚
い布団が掛かっていた。ルパンが出してやったのかもしれない。ベッドサイドに林檎と水差しを置いたのも、多分
あの男だろう。

「うー。」

いやにはっきりした声が上がる。起こしたか、と覗き込んだ。
寝言だったらしい。次元はずいぶん赤い顔をして眠っていた。顔も首もびっしょり濡れている。

「・・・・・・拭いた方が、よいか。」

誰にともなく呟く声が、我ながら憂鬱に響く。バスルームとキッチンを回り、氷水を張った洗面器とタオルを携え
て戻った。
冷たいタオルで首元を押さえてやると、次元がぴく、と動く。かさかさの唇が開いた。

「・・・・・・そんなんじゃ・・・・・・、ねえ・・・・・・、」
「・・・・・・。」

どんな夢を見ているのか。
洗い清めて冷たくしたタオルを、額に乗せてやった。寝言を放った唇が、ゆっくりと閉じてゆく。
苦しげな顔をじっと見つめた。
この男の顔をまともに見るのは久しぶりだ。

いつ以来、だろう。

明るい部屋に立ち尽くしたまま、五右ェ門はぼんやりと記憶を辿った。



     *



「・・・・・・てな訳でよ、すんごいお宝だってことは分かってもらえたかなー?」

意気揚々と2人を眺め回すルパンに返す言葉は、特になかった。木曾の山奥、聖地に眠る秘仏のことはよく知
っている。知っているどころか、72年にたった1日きりのご開帳には、一目その尊顔を拝するべく足を運ぶつもり
ですらいたのだ。

「分かんねえな。そんなカビ臭い木の像に、ほんとに価値があるのかね。」

煙を吐き出す次元は、いかにもどうでもよさそうだった。湧き上がる抗議を口にする前に、ルパンがたしなめる。

「そのカビ臭さの中にな、厳粛な美ってもんがあんのよ。そこんとこが分かんないようじゃ、いつまでたってモテ
ないぜ、次元ちゃん♪」
「ケッ、モテなくて結構だ。」

煙草をひねり潰し、次元はソファにひっくり返った。

「何でもいいぜ、俺にゃさっぱり分からんが、価値があるってんならな。」
「よーし、五右ェ門、お前は?」

一瞬、言葉に詰まった。
価値もやり甲斐も申し分ない。ただ、あれはあの山奥にあるべきものだ。そうあって欲しいと思った。


     くだらぬ感情だ。


いつもの声が囁く。     そうだ。
私心を捨てろ、望みを断ち斬れ。
言い聞かせ、口を開いた。
その時。

「ところで、そのご開帳とやらはいつなんだ?」

のんきな声だった。

「11月25日だ。山ん中だから、ちーとばかし寒いかもな。」
「そいつはいけねえ。」

突然起き上がった次元に、ルパンが目を丸くする。

「なんだあ、次元?」
「その日は大事な用がある。」
「女か?」
「映画だ。」
「映画だとお!?」

気色ばむルパンに、次元は涼しい顔で返した。

「一夜限りの上映でな、『カサブランカ』だ。俺ァ前から楽しみにしてたんだ。」
「あんっなもん、ビデオやDVDでいつだって見れんだろが!」
「悪ぃな、ルパン。」

それだけ言って、次元はまたソファに寝そべった。むむむむむ、と唸っているルパンに声をかけたものか迷って
いると、

「しゃあねえな、別のにすっか。」

あっさり言い放ち、ルパンは立ち上がった。

「お前らのどっちかでも欠けたら、このヤマは無理だ。待ってろ、す〜ぐ他の持ってくっからよ♪」

バタバタと出ていく男を、半ば呆気にとられて五右ェ門は見送った。

「騒々しい野郎だ。」

次元が呟く。思わず問うた。

     よいのか、あれで。」
「何がだ?」

あっけらかんと聞き返され、逆に返事に窮する。

「・・・・・・いや・・・・・・、」
「お前さんも、」

カチリと鳴らしたライターの火が、次元を照らした。

「イヤなら断りゃいいんだぜ。」
「・・・・・・。」

うまそうに煙草を吹かす男を、五右ェ門は黙って見つめた。



その日から、うまく顔を見ることができなくなった。




     *



顔は赤いままだが、寝息は幾分安らかになったようだ。
椅子を引き寄せ、五右ェ門は腰を下ろした。膝に拳を置き、背筋を伸ばす。
久しぶりに見る男の顔は、以前と何も変わっていなかった。

いい加減な、だらしない男だ。
そう思っていた。
根無し草を気取る気ままな態度には、男の美学とやらが時折透けて見えたが、所詮それは拠り所を持たぬ者
の言い訳に思えた。

剣のみが、自分の拠り所だ。
かつて属した集団が、剣技と一体のものとして五右ェ門に叩き込んだのは、自らを殺せという一教条に尽きた。
集団を去り、それが統率に必要な方便に過ぎなかったと悟った時、既に感情を抑える術は自らの一部となって
しまっていた。己を殺すとより強くなれる。より高みに上りたいと願う五右ェ門にとって、自我のコントロールは、も
はや欠かせない方便であった。


イヤなら断りゃいいんだぜ、という言葉が蘇る。
あの時、ほんの少しだけ、蓋がずれた。


ふと息苦しさを感じて、五右ェ門は立ち上がった。
額から汗がつ、と流れる。光の溢れる窓を少し開くと、新鮮な空気が入ってきた。
頭を一つ振り、のろのろとベッドに戻る。
先刻あてがったばかりだというのに、額のタオルは既に温まっていた。取りはずし、氷水に浸す。冷たい水の感
覚に、深呼吸をした。

やはり、抑え込んでしまわねばならない。
己の感情など、ろくなものではない。

軽く絞った冷たいタオルを、額に乗せた。
普段は鍔に隠れている男の目元に、思わず視線がゆく。軽く瞑った瞼はひどく無防備で、あどけない感じすらした。

この感情はなんだ。

開いた隙間から溢れ出す、この望みはなんだ。
五右ェ門はぎゅっと目を瞑った。男の自由な魂や、思いがけない人間味のことを思い、それは自分とは関係の
ないものだと言い聞かせた。
早く、ふたを閉じてしまわねば。

「・・・・・・いいじゃねえか。」

突然聞こえた声に驚いて目を開けた。見ると男は誰にともなく、にー、と一人笑いしている。
思わず吹き出した。
まったくさっきから、何の夢を見ているのだ。

それから急に、五右ェ門は真顔になった。
ベッドの端に手をかけ、肘を折った。

レースのカーテンが、音もなく揺れた。









→つづく

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