昼行灯日記(一)
江戸は夕暮れ時だった。
あちこちから煮炊きの煙が上がっている。
せわしなく行き交う人々の中に喜一の姿があった。二本差しの羽織姿は一見して与力と分かるなりだ
が、懐に手を入れ鼻歌まじりにぶらぶら歩く様はとても奉行所の人間に見えない。
「しのぶー、帰ったよ。」
からりと格子戸を開けた。草履を脱ごうと上がり口に背を向けた瞬間に気配を感じる。
カカッ!
飛んできた小柄をすんでのところで避け、喜一は柱に刺さったそれをまじまじと見つめた。
「あの、しのぶ、さん? ほんとーに洒落にならないから、ね?」
「・・・・・・遊馬さんが見えたわよ。」
しのぶは小柄を構えたまま喜一を睨んでいる。
喜一はあちゃあという顔をした。
「詰所に来ないけど何かありましたかって。今日は一日どちらへ?」
「あー・・・・・・、言わなきゃだめ?」
カッカッとまた小柄が鳴り、喜一は飛びすさった。
「言います言います!泉屋にちょっと、ね。」
「おのあさんが忘れ物を届けに見えました。昼間っからお酒ですか!」
「誤解だってば!しのぶ、ちょっと落ち着いて・・・・・・、」
「問答無用!」
しのぶが再び小柄を構えたところへ、からりと格子戸の開く音がした。
「いるかい?」
榊は室内を一瞥して、
「取り込み中みてえだな。またにするか。」
「ど、どうぞ榊さん!今お茶を・・・、」
しのぶがあたふたと奥へ去る。
草履を履きっぱなしだった喜一は、榊と並んで上がり口に腰をかけた。
「お熱いこったな。」
「だといいんですがね・・・・・・。」
榊は先に部屋へ上がり、煙草盆の前に腰をおろす。
「で、どうだったい。」
「案の定、ですよ。」
榊に勧めてから喜一も煙管を吹かす。
「泉屋の二階から女と出て行きました。待合のようでしたがね、他に草履が五つ。」
「会合、か・・・・・・。」
「おのあちゃんの話だと、その二人連れは初顔で、五人とは別室だったようですがね。おおかた次の押し
込み先なんかがやり取りされたんでしょう。」
「小間物屋の若旦那、か。とんだ目くらましだ。」
「噂どおり年中笑ってるような顔でしたよ。」
「いいのかい?お前さんも面が割れちまったじゃねえか。」
「とうに知ってるでしょう。今日のところは挨拶ってことで。ま、これが牽制になるとも思えませんがね。」
「そうだな。」
すっと襖が開き、しのぶが茶を持って入って来る。
「・・・・・・先ほどは失礼いたしました。」
「はっは、お父上の血だ。お達者かい。」
「はい。お会いしたがっておりました。」
「そうだな。隠居者同士、また呑みてえもんだ。」
ずっ、と茶をすする。
「・・・・・・で、どうする。」
「一応網は張ってみますが、次がどこだかさっぱり分かりませんからねえ。」
「辛えところだな。ま、なんかあったらまた知らせてくれ。」
榊はどっこらしょ、と立ち上がった。
「あれ、もうお帰りで?」
「よかったらお夕飯でも・・・・・・。」
「いやいや、女房が待ってるんでな。気がねなくさっきの続きやってくれ。」
しのぶが頬を染める。
雑踏に消える榊を見送り、戸口にしんばり棒をかけてから、しのぶはきっ、と喜一に向き直った。
「・・・・・・あなた。」
「はい?」
喜一が後ずさる。
「・・・・・・ごめんなさい。勘違いして怒って。」
「・・・・・・。」
まだ怒ったような顔で奥へ入ろうとするしのぶを、喜一は後ろからがばと抱き締めた。
「・・・・・・!?」
「そういうの俺弱いって知ってるでしょ?」
「そ、そんなつもりじゃ・・・・・・!」
じたばたするしのぶをさらにきつく抱き締める。
「ごめん。心配かけて。」
「・・・・・・。」
「ごめんね?」
「・・・・・・もう。」
頬をすり合わせる。唇が近づき、喜一が囁いた。
「続き、しようか。」
「・・・・・・?」
ひょい、としのぶを抱え上げ、足で襖をすぱん、と開ける。
「ちょ、ちょっと・・・・・・!」
畳の上にそっと降ろされるが早いか、唇を激しく吸われてしのぶはもがいた。
「どこが続きなのよ!」
「おんなじだよ、俺には。」
嬉しそうに言いながら喜一がしのぶの足の方へ手を伸ばしたその時、
ぐごごごごご。
盛大な音がした。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・俺?」
「私じゃないわよ。」
しのぶは息をついて起き上がった。
「一番お望みのものを差し上げるわ。ごはんにしましょ。」
「あー・・・・・・。俺、ごはんよりも続きが・・・・・・、」
「嘘おっしゃい。」
すたすたと土間へ下りるしのぶを見ながら喜一はため息をついた。
「こっちの我慢のがよっぽど辛いよ・・・・・・。」
台所からいい匂いが流れてきた。
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