2日後(中)








 コンコン、とノックの音が響き、しのぶははっと身を離した。

「はい、どうぞ〜。」

 後藤が慌てるでもなく応答する。

「失礼しまーす!」

 遊馬が入って来ても、後藤はしのぶの席に両手をついたままだった。しのぶも書類を引き寄せ、たった
今まで話し合っていたかのように振る舞う。遊馬は特に気にするでもなく、背後の後藤の席へ回った。

「昨日の報告書、遅くなりました! ここ置いときます。」
「おーう、ご苦労さん。」
「失礼しまーす!」

 バタン、とドアが閉まる音にしのぶは大きく息をついた。にやにやしている後藤と目が合う。

「・・・・・・なによ。」
「どきどきした?しのぶさん。」
「・・・・・・たいしたものね、後藤さんは。」
「堂々としてるのが一番ってことだよ。こそこそしてると怪しまれるよ〜。」

 後藤が不意をついて唇を掠め取ろうとした途端、

「あだっ!」

 ばしっと顔をクリップボードが遮った。

「何もしなければ怪しまれることもないわ。言ったでしょ、これが最後って。」
「は〜い・・・・・・。」

 顔をさすりながらとぼとぼと席へ戻る後藤を見ながら、しのぶはまたため息をついた。



      *



 日が傾き、室内の温度が急に下がって冬の到来が間近なことを知る。

「じゃ、お疲れさま。」

 手早く机の上を片付けたしのぶが立ち上がると、後藤は驚いて顔を上げた。

「あれ、しのぶさんもう上がり?」
「ええ。後藤さんは課長待ってなきゃいけないんでしょ。」
「帰っちゃうの?」

 しのぶは変な顔をして後藤を見た。

「・・・・・・帰るわよ。」
「あ〜・・・・・・、せっかくこういうことになったんだしさあ。なんか、こう・・・・・・、」

 妙なジェスチャーをしている後藤を、しのぶは困ったように眺めた。

「だって・・・・・・、一緒に帰るのも変でしょう?」
「いいんじゃない?」
「そういう訳にいかないわ。明日も会えるし、いつでも話できるわよ。お疲れさま。」

 ばたばたと逃げるように去るしのぶを見送り、

「ああいうお堅いところがたまんないんだけどね・・・・・・。」

 後藤は頭をかきながらひとりごちた。



         *



 夕食を終え、しのぶは自室のベッドに倒れこんだ。

     疲れた・・・・・・。

 我ながら情けなかった。今日1日の自分を思い返すと顔が赤くなる。

     だって、どう振る舞っていいか分からないわよ。

 やつあたり気味に心の中で文句を言う。本当は分かっていた。余裕がないのは自分だ。自ら心を決め
て踏み出したのに、いざ後藤の眼差しを受けると落ち着きを失っている自分が腹立たしかった。

     後藤さんはなんだかんだいって余裕あるのよね。

 あのあと後藤は再びしのぶに迫るでもなく、まったくいつも通りに仕事をこなしているように見えた。水
虫の薬を塗り、課長からの電話をのらりくらりとかわし、喫煙所と隊長室を往復する1日。後藤が傍を通
るたびに少しだけ身を固くする自分がばかみたいだった。

     ちゃんと線を引かなきゃいけないのは私の方だわ。

 枕に顔をあてて少しうつらうつらした。
 携帯の呼び出し音で目が覚める。

     やだ、寝てた・・・・・・?

 もそもそと起き上がり、携帯へ手を伸ばす。画面の名前を見た瞬間、自分がこの電話を待っていたこと
を知った。

『もしも〜し。しのぶさん?』

 能天気な後藤の声に、人の気も知らないで、と思わず意地悪な声が出る。

「どうしたの?」
『・・・・・・どうしたの、はないよ・・・・・・。』

 後藤はそうだなあ、と呟いて、

『声が聞きたくなった。』
「さっきまで聞いてたでしょ。」
『足りない。』
「・・・・・・。」
『あとね、』
「なによ。」
『顔も見たい。』
「明日も・・・」

 見れるでしょ、という言葉を遮って、

『いま見たい。』
「何言ってるの。課長の用は終わったの?」
『終わりましたよ。だから迎えに来たんだけど。』
「・・・・・・!」

 がばっと立ち上がり、しのぶは窓際に駆け寄った。

『ちょっと寒いんだよね。早くしてね。』
「・・・・・・まったくもう!」

 しのぶは上着を引っつかんで飛び出した。何事かと出て来た母と鉢合わせる。

「あ・・・・・・、」
「どうしたの?」

 しのぶは顔を赤くしてなぜか胸を張った。

「お母さん、私、後藤さんと付き合ってるの。」
「・・・・・・あらまあ。」
「迎えに来てるみたいだから、行って来るわ。」

 駆け出すしのぶを母は「しのぶ、」と呼び止めた。

「じゃ、お風呂抜いて鍵かけちゃうわね。」

 二の句が継げないしのぶに母は笑ってみせた。

「どうぞごゆっくり。」



       *



 玄関を出て走った。吹き付ける風が熱い頬に気持ちよかった。走りながらしのぶは、うれしそうな顔をし
ない練習をした。
 後藤は助手席の扉にもたれて煙草を吹かしていた。しのぶを見つけて「やあ」と手を上げる。

「どういうつもりなの?」
「だから、言ったじゃない。」

 煙草を地面に落とす。見咎めて拾おうとするしのぶの手をとってぐい、と引き寄せた。

「・・・・・・顔見せて。」

 両手を引き上げて顔を近づける。鼻と鼻、冷たい頬、かさついた唇。
 唇でお互いの唇を挟み合った。後藤のコートにすっぽり包まれるように抱き締められる。しのぶも両手
を後藤の首に回した。車の通りはまだ激しかったが構わなかった。
 やっと唇が離れ、後藤がしのぶの目を覗き込む。

「・・・・・・なに?」

 問いかけるしのぶのまぶたにキスして、

「今日1日長かったな〜と思ってね。」
「そんな風に見えなかったわ。」
「ずっとこうすること考えてた。」

 しのぶはぎゅっと目をつぶった。浮き立つ心をもうどうすることもできない。

「じゃ、行こうか。」

 後藤が助手席のドアを開ける。

「どこへ行くの?」

 助手席のドアを閉めてから、後藤も運転席に入った。

「そうだなあ。どこにさらって行こうかな。」
「・・・・・・。」
「どこがいい、しのぶさん?」
「今からじゃどこもやってないわよ。」
「じゃ、俺の一番行きたいところでいい?」
「・・・・・・どこかによるわ。」
「大丈夫、しのぶさんも行きたいところだと思うよ。」
「分かるの?」
「分かるよ。」

 後藤はしのぶの方へ身を乗り出した。首筋に両手をかけたかと思うと髪をかき上げ、首筋にかぶりつく。

「ちょっ・・・・・・、後藤さん!」
「今すぐ欲しい。」

 跡を付けるのが目的みたいな音を立てて首筋を吸ってから、後藤は運転席に戻り、車を急発進させる。

「だから、急がないとね。」
「・・・・・・そうね。」

 しのぶの小さな声に後藤はぞくぞくした。

「・・・・・・急いでね、後藤さん。」

 ポンコツ車のエンジンが、物凄い唸りを上げた。






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