2日後(上)
隊長室のドアを開けようとした手がぴくり、と止まった。彼女がもう来ている。
軽井沢の出張から1日の休暇をおいた朝だった。あの出来事を巡って思考を空回りさせることにのみ
費やされた1日は、とても休暇と言える代物ではなかったが。
なるようにしかならんだろ。
1日分の思惑を振り切るようにばきばきと首を鳴らし、後藤は隊長室のドアを開けた。
「おはよ〜、早いねえ。」
背広を脱ぎ、横を通りながらさりげなく様子を窺う。既に机に向かっていたしのぶは、顔を上げずに「お
はよ」と返した。
なんて声だろうね、まあ。
しのぶの固い声に気づかない振りをして、うーんと伸びをしながら更衣室に入る。
「いーい天気だねえ。」
そうね、という素っ気ない声をドア越しに聞きながら、後藤はのろのろと着替えた。やっぱり、か、という
落胆と、何度も反芻した一昨日の記憶がないまぜになって頭を巡り始める。しのぶの甘い声、熱い頬、
絡めた白い指。
後藤は大きく息をついた。
仕事だ。
鏡の中の冴えない中年男に鋭い一瞥をくれた。まとわりつく思念をかなぐり捨て、頭を切り替えようと努
力する。
のっそりと更衣室から出ると、しのぶがすっと顔を伏せるのが目に入った。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
そりゃ、そうだよなあ・・・・・・。
冷たい塊が体の中を下りて行く。更衣室のドアの前に立ち、ネクタイをひねくりながらしのぶを見やった。
後藤の視線を感じながらも、しのぶはおし黙って書類に目を落としたままだ。
目を離すことができず、かといってかける言葉も思いつかず、後藤は喫煙所へ逃げ込もうとドアへ向か
った。
「後藤さん。」
途端に体が硬直する。ぎぎぎ、と音がしそうなくらいゆっくりと後藤はしのぶの方へ顔を向けた。
「・・・・・・なんでしょう?」
しのぶは顔を上げ、定まらない視線を後藤の周りにふわふわと漂わせている。
「コーヒー、」
「・・・・・・へ?」
「飲むでしょう?」
「あ〜、・・・・・・はい。いただきます。」
間抜けな応答の後、しのぶはぎこちなく立ち上がった。後藤もふらふらと後を追う。
コーヒーを淹れるしのぶの背後に立った。しのぶはせわしなく手を動かしている。白い首筋にかすかな
紅い痕跡を認め、後藤はしのぶを抱き締めたい衝動をぐっとこらえた。
コーヒーが落ち始め、しのぶの動きが止まる。重い沈黙が流れた。
後悔、してるのかな。
昨日から続く堂々巡りの思考にまた陥っていく。甘い記憶に浸っては、目の前の彼女が同じ記憶をど
んな気持ちで思い返しているのか想像し、結局そこから一歩も動けないのだった。
後藤は恐れていた。
拒絶を。
「・・・・・・後藤さん。」
コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てた。しのぶはテーブルに両手をついたまま、落ちる液体を眺め
ている。
「・・・・・・はい。」
我ながら情けないくらい腑抜けた声が出た。
「・・・・・・仕事に、ならないの。」
「・・・・・・はい?」
「いろいろ・・・・・・考えて。その・・・・・・、」
おとといのこと、としのぶは小さな声で言う。しのぶの背中を見つめたまま、後藤はもはや指一本動か
すことさえできなかった。
「・・・・・・。」
しのぶはくるりと向き直り、後藤を見すえた。
「だから、はっきりさせた方がいいと思って。」
コーヒーの音は止まっていた。後藤はなかば覚悟を決め、目を閉じた。
短い幸せだったなあ・・・・・・。
「・・・・・・好きよ。」
え?
おそるおそる目を開けた。耳まで真っ赤になったしのぶがこちらを睨んでいる。
「2回も言わないわよ。」
「・・・・・・。」
「なんて顔してるの?」
「・・・・・・。」
そろそろとしのぶに向かって手を伸ばす。肘の辺りに触れると、しのぶは目を伏せた。
「・・・・・・ほんとに?」
「・・・・・・ほんとよ。」
ゆっくりしのぶを引き寄せ、そっと抱き締めた。
しのぶの体は温かかった。
「・・・・・・だめだと思ってたわ、俺。」
「・・・・・・ばかね。」
しのぶが後藤の背中に腕を回す。
「・・・・・・しのぶさん、」
「・・・・・・なに?」
「もっかい、言ってくんない?」
「・・・・・・嫌よ。」
「しのぶさん、」
「・・・・・・。」
「好きだ。」
私も、という甘い声が耳に届く。身を離し、唇を重ねようとした、その時。
むに、と、両手で頬を押しとどめられて後藤は目を開いた。
「・・・・・・ひのぶはん?」
「だから、はっきりさせましょう。」
「あの、なにを?」
「職場でこういうことは今後絶対しない。仕事とプライベートは別よ。」
しのぶは腕をほどいてコーヒーを淹れ始める。後藤はがっくりと肩を落とした。
「あの〜、せめて今くらいはさあ・・・・・・、」
「だめ。ケジメつけないと。」
できるでしょ?としのぶは後藤にコーヒーカップを渡した。
後藤は一番まじめな顔を作って言う。
「・・・・・・努力します。」
「全然信用できない顔ね。」
「しのぶさ〜ん・・・・・・。」
しのぶはすたすたと席に戻った。コーヒーをデスクに置いて、小さな声で呟く。
「・・・・・・私も努力するんだから。」
「・・・・・・。」
後藤は吸い寄せられるようにしのぶの方へ近づく。
「やっぱり、努力がいるんだ?」
「・・・・・・。」
「ねえ、しのぶさん。」
「なによ。」
「キスしていい?」
「・・・・・・人の話聞いてた!?」
「1回だけ、ね? お願い。」
しのぶはこめかみを押さえてため息をついた。
「そしたらちゃんと仕事に戻るわね?」
「もちろん。」
しのぶの頬を指でなぞる。軽く顎を持ち上げられ、しのぶは観念したように目を閉じた。
ゆっくりと、唇の形を確かめるように触れ合う。
「・・・・・・これが最後よ。」
「努力するよ。」
心にもないことを、後藤は言った。
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