内緒








「ねえ、ちょっと大丈夫なの?」

 たまりかねて声をかけたしのぶに「んー?」と返す後藤の声は、いつもと変わらなかった。

「大丈夫ですよ。」

 言いながら上げた顔も一見普段通りに見える。元々別によくもない顔色に、何を考えてるんだか分から
ない表情。しかししのぶは、そのどろんとした目の奥に、いつもにない淀んだ澱のようなものを認めてい
た。

「正直におっしゃい。」
「何を?」
「いったい何度あるの?」

 後藤は唇の端だけを曲げて笑った。

「分かる?」
「隠してるつもりだったの?」
「みんなにはバレなかったんだけどなあ。」
「残念だったわね。」

 つかつかと後藤に近寄り、有無を言わさず額に手をやった。

「あ、気持ちいいなあ。」
「・・・・・・ちょっと。8度はあるわよ。」
「朝は9度あった。」
「帰りなさい!今すぐ!」

 血相を変えて怒鳴るしのぶを後藤はおもしろそうに眺めた。なんでこんなに腹が立つのか、しのぶにも
よく分からない。

「でもさあ、どうせもうあと1時間もしたらあがれるんだし・・・・・・、」
「だったら今あがっても一緒でしょう!?」

 後藤が熱っぽい息をはあ、と一つついた。

「・・・・・・そだね。これ以上ここにいたらしのぶさんの皺2、3本増えちゃいそうだし。」
「冗談言ってる暇があったら・・・・・・!」
「ありがとう。」

 急に声のトーンが落ちたので、思わず黙ってしまった。隠す必要がなくなった安堵からか、両手を顔に
あてて後藤が長い息を吐く。我慢していたのが分かった。

「お言葉に甘えせてもらおうかな。」
「・・・・・・1人で帰れるの?」

 なんとなくおずおずと聞いてしまう。後藤は笑いながら上着をひっかけた。

「子供じゃないんだから。病院寄ってくし、大丈夫だよ。」
「・・・・・・そう。」

 机の上をいい加減に片付け、立ち上がる。

「正直、助かったわ。ごめんね、迷惑かけて。」
「・・・・・・なんてことないわよ。」

 もぞもぞ言うしのぶに「ほんじゃ」と声をかけて、後藤は隊長室を出て行った。

     もう少しましな言い方ができなかったかしら。

 後味の悪さを抱えてしのぶは立ち尽くす。「ありがとう」という言葉がやけに耳に残った。



     *



 太陽の動きに活動を合わせる現場の多い埋立地は、日が落ちるやいなや深閑とした闇にすとんと落ち
る。二課棟だけが、なにか忘れているように灯りをともし続けていた。
 書類を片付けながら、しのぶは電話をちらっと見た。別に連絡すると言った訳じゃなし、音沙汰がない
のは無事な証拠だ。思いながら、電話と時計を交互に見やるのがもうこれで20回目であることに本人は
気づいていない。

 いよいよ帰れる状況になって手早く支度を済ませ、ふと手を止めた。
 携帯を手にしている。自分が電話するつもりだったことを初めて知った。

     電話、するの?

 立ち尽くし、行動に追いついていない思考を巡らせる。「ありがとう」という言葉がまた耳の中で鳴った。
 ぱこっと携帯を開いた。怒ったように画面を睨みつけ、ボタンを押す。
 呼び出し音が5回、6回と鳴り続ける。寝ているだろう、起こすのも悪いと思いながら、しのぶは電話を
切ることができなかった。10回目の呼び出し音でプッと音がする。留守電だと思った。

     あい。」

 後藤の声を聞いた途端、激しく後悔した。

「あの、ごめんなさい。     南雲です。」
「しのぶさん?」

 さっきここで聞いた声より大分かすれている。次の言葉を求めて、しのぶは宙を見回した。

「寝てたわよね。」
「うん。寝てました。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」

 なんで電話したのか分からなくなった。後藤はもっと分からないだろう。

「それならいいの。あの、もし明日休むようなら・・・・・・、」
「しのぶさん、」

 遮られてしのぶは口をつぐんだ。

     来て、くんない?」

 小さな声。

「・・・・・・。」

 後藤の言葉よりも、それが頭のどこかにあった自分に気づいて、しのぶは絶句する。

「・・・・・・やだなあ。冗談ですよ。」

 後藤が沈黙を破った。ごまかすようなわざとらしい咳をしのぶは黙って聞いた。

「とりあえず、明日連絡するよ。わざわざあり・・・・・・、」

「行くわよ。」
     え?」

 電話を切った。
 つとめて何も考えないようにしながら後藤の住所を調べ、鞄を掴んで隊長室を後にした。



     *



 「同僚」という言葉がさっきから頭の中をぐるぐる回る。流れる標識を気にしながら、しのぶは世間一般
に言う「同僚」というものがどういうものだったか、思い出そうとしていた。病気見舞いの一つくらいするだ
ろう。薬や飲み物を届けるのも普通だろう。何より、こじらせて迷惑を被るのはほかならぬ自分なのだ。
文句の一つもいうくらいあり得べきことだ。右折のウィンカーを出しながら、しのぶは「範疇」を作っておく
ことに没頭した。そうすれば安心な気がした。

 やたら寺の多いこの地域は、夜が早いらしい。エンジンを切った途端に訪れる静寂に、なにか歓迎され
てないような空気を感じてしまう。しのぶは後悔し始めていた。助手席のビニール袋を恨めしそうに眺め
る。

     置いてくるだけでもいいわ。

 重い足取りでエレベーターに乗り込む。「行く」とは行ったが後藤も本気にはしていないだろう。
 ドアの前に立った。呼び鈴を押す気はとうに失せていた。ドアノブに袋をそっとかける。1.5リットルのペッ
トボトルがドアにあたって、ごん、と小さい音を立てた。
 逃げるように踵を返す。エレベーターは別の階に移動してしまっていた。ボタンを2、3度押してから、階
段で降りることを思いつく。階段は、と見回したしのぶの耳に、がちゃ、という音が聞こえた。

     しのぶ、さん?」

 後藤がドアを半分開け、顔を覗かせている。弾かれたようにしのぶは駆け寄った。

「寝てちょうだい、いいから。」
「ほんとに来たんだ・・・・・・。」
「ごめんなさい。帰るから。これ、腐るもの入ってないからその辺に置いといて大丈夫よ。布団に戻って。」

 後藤の顔色に、病状が深刻であることを知る。しのぶは必死だった。戻ろうとしない後藤をぐいぐいと家
の中へ押し入れる。袋を玄関先に放り投げ、部屋の位置もよく分からないまま、後藤を押しながら奥へ
進んだ。
 暗い部屋の片隅に敷いた布団の回りに、薬や灰皿が散らばっている。封を切ったお粥のレトルトパック
を見つけて、なぜか胸が痛んだ。

「ほら、寝て。」
「・・・・・・。」

 もそもそと布団に入り、こちらをじっと見ている後藤に「目、つぶりなさい」と声をかけた。後藤は目をつ
ぶらない。しのぶはため息をついた。

「ほんと、ごめんなさい。」
「どうして謝るの。」
「却って迷惑じゃない。こんなに具合悪そうなのに・・・・・・。」
「来て、って言ったの俺だよ。」
「・・・・・・。」

 後藤がふ、と笑った。

「・・・・・・ありがとう。」

 やっと目をつぶる。額に手をあててみた。熱い。立ち上がり辺りを見回すと、

「どこ行くの。」

 後藤が見上げている。

「台所借りるわ。タオル絞ってくる。」
     あ。悪いね。」

 しのぶは少し笑った。

     いるから。」

 見当をつけて歩き出す。台所の明かりをつけて、目が慣れるのを待った。
 少し迷った末、買って来たものを冷蔵庫に入れることにする。豆板醤やアンチョビなんかが入っている
冷蔵庫を少なからず意外に思いながら、ペットボトルや栄養ドリンクの類を突っ込んだ。
 案外片付いている部屋をなるべく見ないようにしながらタオルを探し、水で絞る。洗面器、と思ったがさ
すがに風呂場はためらわれるのでボウルを見つけて水を張った。両手で抱えて暗い和室に戻る。

 後藤は口を開けて目をつぶっていた。暗くてよく見えないが、唇がかさかさになっている。
 水音が部屋に響く。そっとタオルを額にあてると「・・・もちいい・・・」と後藤がかすれ声で呟いた。

「こんなになるまで・・・・・・、」

 我慢させたのは自分の責任もあるだろう。後藤を責めそうになった口をつぐんで、しのぶは目の前の寝
顔に見入った。見ているそばから後藤がちらちらと薄目を開けてこちらを見る。

「ちゃんと寝なさい、もう。」
「いや・・・・・・、しのぶさんいるなあと思って。」
「なによそれ。」
「・・・・・・もすこし、いてもらっていい?」

 よほど辛いのだろう。布団をかけた胸の辺りが頻繁に上下している。肩と布団の隙間をぽんぽんと押し
て埋めてやった。

「珍しいわね、そんな弱気になるなんて。」
「こんなチャンスめったにないからね。甘えとかなきゃ。」
「子供じゃないんだから、って言ったの誰よ。」
「内緒にしといてね。」
「・・・・・・いいわよ。」

 後藤は目を閉じた。

     来てくれると思わなかった。」
「私も来ると思わなかったわ。」

 後藤が笑う。

「しのぶさんの声、好きだなあ。」
「・・・・・・何を言い出すのよ。」
「こういう時効くわ。なんか喋っててよ。」
「なんかって何よ。」
「なんでも。桃太郎でも、落語でも。」
「あのね、こうやって喋ってていつまでたっても寝ないんだったら、帰るわよ。」
「・・・・・・寝ます。」

 苦しそうにはあ、と息をついて後藤は黙った。
 畳に出ている手が寒そうだ。布団の中に入れてやり、抜こうとして、握り返された。

「・・・・・・。」
「内緒にしといてね。」
「・・・・・・当たり前よ。」

 布団に手を突っ込んだままの姿勢で、これじゃタオルが絞れないけど、とぼんやり考えた。



     *



 規則正しい寝息が聞こえ始めた。握っている手の力が緩んだ。起こさないようにそっと外す。
 額のタオルをとった。水で湿らせて絞り、また乗せ直そうとして、ふと後藤の眉間の皺に気づいた。
 夢の中でも相当苦しんでいるらしい。
 畳に手をついてかがむ時、範疇、という言葉が頭をかすめた。

 熱い額にキスをした。

 再びタオルを乗せる。魔法のようには効かないらしい。眉間の皺はほんの少し緩んだような気もしたが、
よく分からなかった。
 しのぶは立ち上がった。



     *



「おはよう、しのぶさん。」

 声に驚いて顔を上げる。後藤が隊長室のドアをばたん、と閉めた。

「もういいの!?」
「おかげさまで。熱下がったよ。」
「・・・・・・大丈夫なの?」
「無理はしませんよ。」
「ならいいけど。」
「ありがとね、ほんと。」
「気にしないで。出てきてくれてこっちこそ助かるわ。」

 言いながら、目が離せない。後藤がつるりと額に手をやった。

     なんか、ついてる?」
「いいえ。」

 慌てて目を伏せた。痕跡がついている筈がないのだ。

「なんか、いい夢見たような気がするよ。」
「嘘でしょう。随分うなされてたわよ。」
「そう? まあ、そうか。」

 あんま覚えてないんだけどね、と言いながら更衣室に消える。しのぶはハラハラした。
 いや、寝ていた筈だ。

「どんな夢?」

 さりげなく聞いてみる。出てきた後藤はニヤニヤしていた。

     内緒。」

 しのぶはため息をついた。
 お互い、内緒ごとが多すぎるような気がした。






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