理由








     もういや、ほんっとうんざりよ!

 できることなら大声で叫んで今すぐどこかへ行ってしまいたかった。もっとも、足取りから他人がそれと
窺い知ることはできない。腕を振り胸を張って歩くしのぶの様子は、知らない者なら張り切っているように
すら見えた。
 出動に次ぐ出動、山積みの押印待ち書類、くだらない視察者の応対に、来週の会議5件分の資料準備、
あと課長が何だか言ってなかったっけ? それから     、そうだ一昨日の現場検証!
 とっくに収拾がつかなくなっている頭の中を必死でまとめながら、しのぶは次にすべきことを考えた。ま
ずは、あの男を捕まえて話さなければ。そういえば昨日から見てないわね、と考えながらドアを開けた。

「後藤さ・・・・・・、」

 声をかけてから、かの男が取り込み中であることに気づく。後藤は受話器を肩に挟んで話しながら、し
のぶに片手を上げて「ちょい待ち」と示した。

「・・・・・・そりゃ分かってるよ。でも元はおたくが言い出しっぺなんだしさあ。・・・・・・うん、うん・・・・・・、」

 話しながら手はダカダカとキーボードを打ち続けている。しのぶも時間が惜しいので席について報告書
のチェックを始めた。

「・・・・・・あ、それいいねえ。じゃうちはデータだけ用意するからさ。そしたらプレゼンもさあ、・・・・・・はっは、
飯おごるよ。はーい。恩に着るわ。んじゃよろしく。」

 受話器を置き、キーを叩き続けながらしのぶに声だけかける。

「しのぶさん、なんか久しぶりだねえ。」
「ごめんなさい、邪魔して。」

 しのぶも書類から顔を上げずに返事を返した。

「交渉成立だよ。」
「ええ?」
「水曜の書類。警備2課がやってくれるって。」
「ほんとに!?」

 思わず後藤を見る。

「うちは材料出すだけでいいってさ。送、信っと。」

 カタッと打ち終えてやっと後藤も顔を上げた。

「今送ったから水曜の分は終わり。」
「・・・・・・助かったわ。」
「お互い様だよ。検証、行ってくれるんだって?」
「不承不承ね。でも今のでチャラにしてあげてもいいわよ。」
「たのんます。」

 なんだか笑うのが久しぶりだ。

「なんか用だった?」

 聞かれてはっとする。

「そう、後藤さん課長の話聞いてる?」
「なんだっけ。」
「マスコミ集めてなんだかやるって。」
「あ〜シゲさんから聞いたよ。でも噂じゃ・・・・・・、」

 けたたましいサイレンに会話はかき消された。ばっと立ち上がったしのぶに後藤が笑って「うちだよ」と
肩を回す。

「あ、そうか。」
「なんなら譲るよ?」
「あら嬉しいわね。でもせっかくお手柄たてるチャンスなのに、横取りしちゃ悪いわ。」
「ちぇ。」

 立ち上がり、上着を引っかける。

「過労死したら見舞金なんか出るのかね。」
「聞いたことないわ。花くらいは贈ってあげるわよ。」
「酒がいいなあ。」
「はいはい、いってらっしゃい。」
「いってきまーす。」

 ばたん、とドアが閉まる。

「・・・・・・。」

 なんだろう、この感じは。
 しのぶは手を止めた。

 心が軽くなっている。部屋に戻る前のささくれた気分が嘘のようで、でもそれはそれでなんとなくおさま
りが悪い。

     仕事が一つ減ったんだもの、少しほっとするくらいいいわよ。

 言い聞かせ、コーヒーでも淹れよう、と立ち上がる。深く考えることはやめにした。
 なにかよくない結論がそこにはある。



     *



「・・・・・・んん・・・・・・、」

 目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からず混乱した。大きなものに追いかけられたような記憶
をたどりながら、ぼんやりと頭を上げる。
 隊長室だった。向かいの席で後藤が椅子に反り返って寝ている。夜だ。

     寝ちゃったのね・・・・・・。

 ふぁさ、と毛布が足元に落ちた。こんなのかけてたっけ、と考えながら拾い上げる。顔を上げたしのぶ
の目に、それが止まった。

「・・・・・・。」

 マグカップに椿が1輪、挿してある。
 灰色の無機質な部屋でそれははっとするほど赤く、胸を衝かれた。
 この世のものではないような、現実感のない赤にこんなに心が乱れるのはなぜだろう。
 どうしてこんなに嬉しいのだろう。 

 しばらく眺めてから、しのぶは毛布を手にゆっくり立ち上がった。音をたてないようにそっと後藤の席へ
向かう。
 腕を組み、口を開けて寝ている後藤は普段より少し老けて見えた。
 とりあえず毛布をかけてみる。煙草のにおいがした。

     そう、なのかしら。

 後藤が時折見せる好意のようなものは、別に今に始まったことではなかった。時に悪ふざけや挑発の
ような形をとって表されるその感情はしかし、どちらかといえば子供をかまって反応を愛でる行為に近い、
遊び半分のようなところがあると思っていた。

 思っていた。

 いつからだろう、彼の表現にかすかな「欲」を感じるようになったのは。
 純粋な楽しさとは違う、少しの苦しさを感じるようになったのは。
 落ち窪んだ眼窩、まばらな無精髭、少し乱れた髪。
 見慣れたその顔がいつもと違って見える。

 彼が変わったのか、それとも     

     私・・・・・・?

 しのぶは目を閉じた。崖っぷちに立ち、その下の暗闇をこわごわと覗いてみる。
 何も見えなかった。

     はっきり、しなさいよ。」

 声に出して呟く。自分に言ったのか、目の前の男に言ったのか、分からなかった。
 しのぶは踵を返した。冷たい水が欲しいと思った。



 ばたん、とドアが閉まり、静寂が再び訪れる。
 目をつむった後藤の唇が開いた。

     じゃ、するよ。」

 毛布を肩まで引き上げ、唇にあてた。






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