浄罪








「まだ何かあればやっておきますが!」

 解散を命じた背にかかる隊員の声に、しのぶは複雑な面持ちで振り向いた。

「午前中にやるべきことは済んでいる。少し休め。」
「しかしまだ時間もありますし・・・・・・、」
「命令だと思っていい。休め。」
「・・・・・・はい。」

 穏やかな口調に何がしかの意味を読み取ったのだろう、部下達はそれ以上何も言わず速やかに去っ
た。
 無理もない、と独りごちしのぶも踵を返す。

 埋立地は相変わらず蒸し暑かった。
 台風一過の清々しさも朝のうちだけで、陽は高くなるにつれ容赦なく不快指数を上げていった。空調も
破壊された館内には嫌な熱がこもり、昨日の襲撃者の爪跡が、まだそこここに生々しい姿を晒している。
ため息が100回出ても足りないような光景だったが、隊員達の士気はむしろいつもより高いと言ってよか
った。しのぶはそれを素直に喜ぶ気になれない。

 危うい、と思った。

 涼しい顔をしている隊員達の心の内が、しのぶには分かる気がする。
 目に入るもの肌にまとわりつくもの、あの屈辱を思い出させる事柄すべてを、一刻も早く拭い去ってしま
いたい。そしてできれば早く忘れてしまいたい。
 奇妙な躁状態と言ってもよい彼らの活気の後ろに、無為感との闘いが透けて見えた。今はとにかく祈る
ような気持ちで、しのぶはAVSの帰還を待っている。

 重い足を引きずってようやくたどり着いたドアの向こうで声がした。

「あそう、ほんじゃさ、晴海の方は・・・・・・、いやそうなんだけどね、最初が肝心って言うじゃない。・・・・・・あ
ー・・・・・・、はい。はい。分かりました。じゃまた何かあったら・・・・・・、はい、どーも。」

 受話器を置き、後藤は足先でぷらぷら揺れるサンダルを眺めている。
 しのぶは軽く咳払いをした。ここにも危ういのがいる、と思う。

「あ、お疲れ、しのぶさん。ハンガー片付いた?」
「なんとかね。・・・・・・松井さん?」
「ああ、今の? まあね。」
「あんまりしつこくすると嫌われるわよ。」
「あ、それ、もうちょっと早く言って欲しかったなあ。」

 後藤が薄く笑う。

「振られたの?」
「昨日の今日だろ、ってさ。」
「同情するわ。」
「どーも。」
「松井さんによ。」
「・・・・・・ああ〜・・・・・・。」

 まだサンダルを眺めている。

「猟犬は放たれたんでしょ。コーヒー飲む?」
「いただきます。」

 席を素通りしてコーヒーメーカーの方へ向かう。何か話したいのだろう、と思った。

「・・・・・・しのぶさんさあ。」
「なあに。」
「・・・・・・。」

 後が続かない。不審に思い振り向くと、後藤と目が合った。

「・・・・・・結局、なんであんなことしたんだと思う?あの人。」
「・・・・・・。」

 言葉の意味よりも、その視線に意識を奪われた。後藤はしのぶを見ているようでいて、その実何か遠く
別のものを見ている。けだるげな眼差しの奥で、熱に浮かされたような異様な何かが鈍い光を放った。

   まるで憑かれているような。

「・・・・・・しのぶさん?」
「・・・・・・ああ、ごめんなさい。ボーっとしちゃって。」

 ガチャガチャとサーバーをセットする。頭の中で警鐘が鳴った。

「・・・・・・分からないわ。」

 正直に言った。
 うん、と後藤の声がする。

「私は、まさかもう一度やるなんて思ってなかったもの。・・・・・・ううん、まともな人間なら、最初からあんな
ことしない。」

 振り向いて、後藤を見据えて、言った。

「だから、私には分からないし、正直、理由を知りたいとも思わない。」
「・・・・・・。」
「私はね。」

 警告したつもりはなかった。
 が、後藤の顔が歪むように笑みへ変わったのを見て、しのぶは何か悪いことをしたような気がした。

「・・・・・・そうか。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・俺、知りたいんだよね。」
「・・・・・・後藤さん・・・・・・、」
「やばいかねえ。」

 何も言えなかった。言いたいことはある気がした。
 後藤が立ち上がった。

「コーヒー、やっぱ後でいいわ。煙草吸ってきます。」

 ぱたん、とドアが閉まる。しのぶは1人分のコーヒーを淹れ、窓際へ歩み寄った。
 激闘の跡が描かれたままの地面から、ゆらゆらと陽炎が立ちのぼる。眺めながら熱いコーヒーを胃に
流し込んだ。

     彼は、何を恐れているのだろう。

 「あの人」は、独自のルールとある種の魅力を持つ男だったのだろう。それはしのぶには理解できない
ものだったが、電話口で彼と話す後藤は、確かに同じルールに乗ろうとしていた。しかしそれは彼を捕ら
えるためであり、彼の張り巡らした策謀を引っくり返すためであり、彼の犯罪を暴くためだった。
 後藤は多分、誰よりも彼の犯罪を憎んでいる。     だけど、もし。

 ほんの少し、ほんのわずかだけそこに嫉妬が混じっているのだとしたら。

 カップに口をつけて、コーヒーがなくなっているのに気づいた。
 コーヒーを淹れようとして思い直し、カップをデスクに置く。
 先刻言うべきだったことが何か分かった。

 喫煙所に後藤の姿はない。しのぶは足を速めた。

 女の警察官として働いてきて、分かったことが少しある。しのぶにとって、社会とは、国家とは、もちろん
職務として守るべき対象だったが、しのぶの意識はあくまでその社会の中で職務をまっとうすることにあ
った。時々、この「社会」や「国家」を中からではなく、外から捉えて話す人間がいる。まるで自分の箱庭
のように。その箱庭を自分の手で動かせるかのように。そういう人間は大抵の場合、男だった。女にはあ
まりないそういう「欲」を、男は多分持っている。

 鉄のドアを開けると、うだるような熱気が自分を迎えた。ドアの端に肘が触れた一瞬後に凄まじい熱を
感じ、思わず腕を振る。
 目の前の屋根の傾斜の上の方に、足が見えた。ため息をついて手袋をはめ、屋根をよじ登る。

 あの男も箱庭を持っている。
 そして悪いことに能力を持ち併せている。

 気配を察して振り向いた後藤が、素頓狂な声を上げた。

「しのぶさん!? どうしたの。」
「こっちの台詞よ!」

 暑さに半ば頭にきながら、しのぶは叫び返した。
 しのぶをまじまじと見つめ、息をついてネクタイを緩める男の額から、汗が流れる。
 この男は、自分の欲と力を恐れている。

「大丈夫よ。後藤さんは。」
「・・・・・・。」
「悔しいんでしょう?」

 しのぶを凝視していた男が、ゆっくりと、苦しげに、笑った。

「・・・・・・悔しいねえ。死ぬほど。」
「それでいいじゃないの。」
「・・・・・。」
「心配しなくても、後藤さんにはできないわよ。」

 後藤が煙草を取り出す。

「どうして?」
「後ろで怖いおばさんが見てるから。」

 ぶは、と笑って後藤は光る空を仰ぎ見た。

「そりゃこわい。」
「そうよ。だから安心して悔しがってなさい。」
「・・・・・・。」

 かなわんねえ、と呟いた瞬間、ばん、と背中を叩かれて後藤はむせた。

「しっかりしなさい、後藤喜一。」

 振り向くと、日差しをもろに受けて眩しそうな女の眼差しが、後藤を見すえている。強い、優しい女だ、と
思った。

「しのぶさん、いい女だね。」
「寝言は寝て言いなさい。先、戻るわよ。」
「・・・・・・も少し、一服していかない?」
「暑くて休憩にならないわ。後藤さんも早く戻りなさい。忙しいんだから、無駄に体力消耗しないで。」
「はーい。」

 覚束ない足取りで屋根を降りていく女を見送りながら、後藤はじんじん痛む背中に手をやった。

「すごいお祓い、してもらっちゃったなあ。」

 呟いて煙草をもみ消す。
 太陽のような女の顔が、焼きついて離れなかった。






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