night duty








 深夜の2課棟は雨の中でぼうっと光っていた。

「やまないねえ。」

 曇りガラスを手で無造作に拭いて、後藤は窓の向こうの暗闇をすかして見る。

「どうせ帰れないんだからいいわ。」
「そりゃまあね。」
「さぼってたらいつまでたっても終わらないわよ。」

 はあいと返して後藤は席に戻る。そうか帰らないんだ、とひそかに弾む心はあくびで隠した。

 年末恒例の特別警戒期間は今年も大繁盛で、机の上に積み上げられた書類と格闘する時間はこんな
夜更けにしか残されていなかった。辛いといえば辛いが、この静かな時間を彼女と共有できることにこっ
そり感謝する。まあ、だから何があるという訳でもないのだが。

 キーボードのカタカタいう音と、紙をめくる音だけがしばらく部屋に響いた。
 あ、こっちか、としのぶが独り言を漏らす。集中しているときの癖だ。後藤はちらりと向かいを見やって
から、さすがに俺もやんなきゃなと書類に向かった。



     *



「・・・・・・後藤さん。」

 いつの間にか没頭していたらしい。思考から引き戻されてディスプレイから顔を離した。もう零時をまわ
っている。

「ごめんなさい、邪魔して。」
「いやあ、ちょうどよかったよ。さすがに目が疲れたわ。」

 うーんと伸びをしてまぶたを揉む。何か言いたそうなしのぶと目が合った。

「ん?」
「すごいわね、後藤さん。」
「なにが?」
「集中してる時。薄目開けて、すごい勢いで40分くらいずっとキー叩いてたわよ。」
「そうだった?」
「あれが真面目な顔なのね。」
「やだなあ、いつも真面目じゃない。」
「そうなの? 初めて見た気がするけど。」

 ふ、と笑ってから、

「そうだごめんなさい中断して。後藤さん、関数分かる?」
「どんなの?」

 立ち上がり、首を鳴らしながらしのぶの席へ向かう。

「このシートとこれ合わせて、日付毎に分析出したいのよ。」
「んー・・・・・・、」

 ちょっといい、と横から覗きこんで表をいじる。デスクに乗せたしのぶの手がちらりと目に入り、爪がき
れいだなあと思った。

「・・・・・・これだと、Access使った方が早いなあ。」
「やっぱり?」

 しのぶが眉をひそめる。

「なんならやってあげるよ。すぐだし。」
「そんなの悪いわ。教えてもらえれば私が自分で・・・・・・、」

 ぐきゅるるる、という派手な音で会話がとぎれた。

「・・・・・・。」
「すいたのね。」
「すいたねえ。」

 そういえば私もおなかすいたな、と思っていると後藤が言った。

「じゃこうしようか。俺やっとくから、しのぶさん何か夜食作ってよ。」
「なんですって?」
「お互いできることやった方が早く進むでしょ。早く済めば、その分休めるし。」

 もちろん後藤は早く済ませたい訳ではない。

「・・・・・・たいしたもの作れないわよ。」
「いいよ、なんでも。俺が作るよりましでしょ。」

 急にしのぶが立ち上がった。まし、という言い方が刺激したらしい。腰に両手を当て、決然と言う。

「いいわ、作ってあげる。」
「ほんとに?」
「ほえづらかくわよ。」

 言い残してしのぶは出て行った。ほんとかわいい人だなあ、と後藤は頬を緩めて見送る。



     *



 ごん、ごん、という妙なノックの音が聞こえ、後藤は入り口へ向かった。
 ドアを開けると湯気の向こうでしのぶが立っている。

「ごめんなさい、両手塞がってるものだから。」

 盆の上に丼が2つ乗っていた。

「うわあ〜、おいしそうだねえ。」
「早く食べましょ、のびちゃうわよ。」

 照れているのか、しのぶは後藤を押しのけて中へ入った。後藤もしっぽを振って後へ続く。

「いただきま〜す。」
「はい、どうぞ。」

 とろとろのかき玉うどんにトマトと水菜が入っている。ラー油が2、3滴。

「むほー、うまい!」
「そ?」

 うまいうまい、とすする後藤をまんざらでもなさそうにしのぶは見つめた。
 後藤が顔を上げると慌てて自分もうどんをすする。後藤が少し笑った。

「なによ。」
「しのぶさん、いい嫁さんになれるよ。」

 じろり、と睨まれる。

「・・・・・・『いい嫁さん』になる気があればね。」
「ないの?」
「ケンカ売ってる?」
「めっそうもない。誉めてるんだよ、もったいないなと思ってさ。」
「全然誉められてる気がしないわ。」
「おかしいなあ。」
「いいから、早く食べちゃいなさいよ。」
「うん。ほんとうまい。」

 あっという間にうどんはなくなった。

「ごちそうさま。片付け俺やるよ。」
「じゃ、お願いするわ。」
「データベースやっといたから、なんかあったら言ってね。」
「あ、ありがとう。見せてもらうわ。」

 後藤にドアを開けてやってから、しのぶは画面に戻った。

「・・・・・・すごい。」



     *



 生乾きの手をズボンで拭きながら戻った後藤を、コーヒーの香りが迎えた。

「お。」
「飲むでしょ。」
「ありがたいねえ。」

 しのぶが後藤の机にコーヒーを置く。そのまま戻ろうとしないしのぶに後藤が目で「ん?」と尋ねる。

「あれだけの説明で、よく分かったわね。」
「あ、データ? あれでよかった?」
「充分よ。ああいうのが欲しかったの。」
「そりゃよかった。」

 なにやら言いづらそうにしのぶがもぞもぞしている。後藤がニヤリとした。

「・・・・・・惚れなおした?」

 しのぶが顔色を変えた。

「なおすもなにも、惚れてません!」
「つれないなあ・・・・・・。」

 もう、としのぶは踵を返した。

「素直にお礼言わせてよ。」

 後ろ向きでつぶやくしのぶに、素直じゃないのは俺のせいじゃないよなあ、と後藤は思った。



     *



 2杯目のコーヒーが空になった。雨の音はやんだようだ。

「あっ、」

 画面に向かっていたしのぶが突然声を上げる。

「どしたの?」
「ボイラー、止まっちゃう。」
「ありゃ。」

 繁忙期で整備班も居残りが多く、いつもより遅い時間までシャワーが使えたが、そろそろまずい時間だ。

「まだ間に合うよ。ひと浴びしてくるか。」
「そうね。」

 昼間の激務の汗を流せないのはさすがに辛い。ばたばたと準備して2人で部屋を出る。
 灯りの消えた廊下は静まり返っていた。当直の隊員たちもみな休んでいるようだ。
 シャワー室に入り、後藤は試しに蛇口をひねってみた。薄い壁の向こうでも水の音がする。

「お湯、出るわね。」
「出るねえ。」

 意外に近くで聞こえた声にぎょっとしながら、後藤は間抜けな声で返した。

     なに慌ててんだか。

 苦笑しながら服を脱ぎ、シャワーの中に入っていく。熱めの湯があたると頭から力が抜けていく感じが
した。はああ〜と思わず息が漏れる。
 すぐ隣でしのぶも同じ格好になっているのだろう。からっぽの頭で、ぼんやりとその姿を想像してしまう。
 美しい首から背中にかけて流れる水の筋、湯があたってほの赤くなった胸を撫でる手・・・・・・。

     やばいやばい。

 疲れてんな俺、と顔をごしごしぬぐう。淫靡な想像を振り払ってスポンジを手に取った瞬間、後藤の耳
がそれを聞きつけた。

     しのぶさん・・・・・・。

 小さく何か歌っている。

 たった今振り払ったイメージが、その柔らかな声と結びついた。しのぶが自分の体を洗っている。湯気
の中で濡れて輝く肌が目に浮かんだ。白い泡のすきまから桃色の乳首が透けて見えたりして・・・・・・。

     いいかげんにしろよな、俺も。

 主張しそうになる息子にいいからお前はひっこんでろと言い聞かせ、後藤はごしごし体を洗いながら、
苦し紛れに自分も歌い始めた。隣からくす、と声が聞こえる。くす、じゃないよ、まったく。



     *



 脱衣所から出たところで顔を合わせる。しのぶが首を傾げた。

「顔が赤いわよ。シャワーでのぼせたの?」
「いや〜、いいお湯だったからね。」    
「? そうね・・・・・・。」

 きょとんとして先に立って歩くしのぶは、後藤のうらめしそうな視線に気づかない。
 ま、俺が悪いんだけどさ、と後藤はため息をついた。

 隊長室のドアを開けた途端、部屋の様子が違っているのに気づいた。しのぶも「あら」と声を上げる。

「いつの間に・・・・・・。」

 2人で窓に歩み寄る。曇りガラスでも外の白さが透けて見えた。
 なんとなくはやる気持ちで窓を開けると、火照った顔を冷気が迎える。

「うわ〜・・・・・・。」
「・・・・・・。」

 いつもの景色とまるで違う真っ白な世界だった。細かい粉雪が音もなく降りてくる。
 街頭や看板の灯りが、白いカーテンの向こうにぽう、ぽう、と浮かんでいる。
 しのぶがため息ともつかない声を漏らした。

「きれ・・・・・・。」

     あ、いいにおいすんなあ・・・・・・。

 しのぶの洗い髪からふうわりとたちのぼる香りに、後藤は身動きできなくなった。
 しのぶも目の前の光景に心を奪われたように、じっとして動かない。
 世界が終わったような静寂が、2人をもの哀しいような、嬉しいような妙な気持ちにさせる。
 かすかに触れている腕の辺りが温かかった。

 1分も見つめていただろうか、ふいにしのぶが身震いした。

「窓閉める?」
「・・・・・・大丈夫。」
「・・・・・・。」

 後藤は羽織っていた上着をすっと肩から外した。そのまま黙ってしのぶにかける。

「あ・・・・・・、」
「・・・・・・。」

 肩に置いた両手が離せなかった。
 しのぶは黙っている。
 後藤はもう目の前の景色など見ていなかった。
 息をつめて前を向いているしのぶの耳に、白いものが一片、くっついて消える。
 みるみるうちに頬を赤く染めるしのぶを、いとしいと思った。

「しのぶさ・・・・・・、」

 後藤の低い声にしのぶの肩がびくっと震えた、そのとき。

「うおー! こりゃすごいねー!」
「ひょー!」
「さみー!」

 階下に突然躍り出た若者たちの歓声に、静寂は破られた。

「雪合戦やろうぜ雪合戦!」
「いや、雪だるまだ!」

 隊長室の窓がすっと閉まったことに気づいた者は誰もいなかった。



     *



「まったく、若い奴らは元気だねえ。」

 後藤の言葉にしのぶははっとした。うーさむ、と後藤が更衣室に入っていく。やっとしのぶは言葉を取り
戻した。

「いいのかしら、あんなことさせといて。」
「いいんじゃない? すぐに凍えて戻ってくるでしょ。」

 上着を引っかけて出てきた後藤に、しのぶは、「これ、ありがと。」と上着をそっと返す。

「着てれば? まだ仕事あるんでしょ。」
「ううん、もう遅いし、今日は休むわ。後藤さんも明日に備えて寝た方がいいわよ。」
「あ〜、そうね。・・・・・・ま、もう少しだけやってくわ。」

 そう、と答えてしのぶは視線をさまよわせていたが、

「じゃ、おやすみなさい。」

 ばたん、とドアを閉め出て行った。

     危なかった・・・・・・。

 後藤は机にどっと腰を落とした。
 今日ばかりは騒がしい若者たちに感謝せずにいられなかった。



     *



 隊長室を出たものの当直室へすぐ向かう気になれず、しのぶは隣の部屋にそっと入った。
 灯りをつけずに窓へ向かい、少しだけ拭いたすきまからまた雪を眺める。
 信じられなかった。

     私、嬉しかった・・・・・・?

 後藤の軽い戯れなのにざわめいた心の正体が分からず、しのぶはただ雪を見つめた。
 すぐ隣の部屋で同じように雪を見ている男には気づかなかった。






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