1日








「・・・・・・お願いだから、何か言ってくれない?」

 しのぶの懇願に返事もできない後藤のくわえ煙草から、灰がぽろ、と落ちた。
 お構いなしでただただしのぶを見つめ、やっと「・・・・・・いや〜・・・・・・」と声を漏らす。
 1年の始まりにふさわしく空は晴れ渡っていた。澄んだ朝の空気の中、晴れがましそうに立つしのぶの
まわりだけが、ひときわ輝いているように後藤には見えたのだ。
 紫の縦縞に薄桃色の藤が散る銘仙は、しのぶを別世界の人物のように見せていた。
 白い半襟からのぞくクリームのようなうなじ、大きな椿のかんざし越しに揺れるまつげの角度。
 こんなに美しかったのか、この人は。

「・・・・・・お姫さまみたいだねえ。」

 やっとのことで漏らした感想に、しのぶは倒れそうになった。

「勘弁して頂戴。後悔してるわよ。」
「・・・・・・なんで?」
「だって、私は嫌だって言ったのよ。」
「・・・・・・お母さん?」
「そう。娘時代の着物なんですって。」
「へえ・・・・・・。」

 なかば上の空で返事をしながら、後藤はしのぶのまわりを10回は回った。

「ねえ、何かの嫌がらせ?」
「あのね、しのぶさん。」
「・・・・・・なによ。」

 そっとしのぶの手を取り、額を寄せて嬉しそうに囁く。

「夢みたいにきれい。」
「・・・・・・!」

 ぼっ、と赤くなるしのぶの手を自分のコートのポケットに突っ込んだ。

「行こ♪」
「・・・・・・。」

 泣きべそみたいな赤い顔でちょこちょことついて来るしのぶが、食べてしまいたいくらい可愛い。

「言ってくれれば、家まで迎えに行ったのに。」
「それこそ母の思うツボよ。」
「お礼言っといてね。」
「なんの?」
「新年早々、すごい眼福にあずかりましたって。」
「・・・・・・。」

 しのぶもこっそり母に感謝した。
 後藤に会うまでは何度もこのまま家に戻ろうと、母をうらめしく思ったのだが。

     こんなに喜んでくれるなんてね。

 そっと後藤の横顔を盗み見る。ポケットの中で握られた手が熱かった。



     *



「ありゃ〜、混んでるねえ。」
「だから、言ったじゃないの。」

 初詣客の行列は覚悟していた以上のものだった。後藤がしのぶの顔を覗き込む。

「しのぶさん、大丈夫?」
「何が?」
「慣れない草履でこの行列は、ちときついんでない?」
「まだ来たばっかりだし、大丈夫よ。」

 ひょい、と片足を上げてみせる。
 飲み物を買うにも一苦労だ。やっと手に入れた缶コーヒーを手に、のろのろと行列に沿って歩く。

「俺も着物着てくりゃよかったなあ。」
「持ってるの!?」

 驚いてしのぶが顔を上げる。

「うんにゃ。」
「なによ、もう。」
「なんとでもなるでしょ、借りるとか買うとか。」

「後藤さんの着物ねえ・・・・・・。」

 想像したのか、しのぶが「ぷ」と吹き出す。

「なんですか、失敬な。」
「落語家みたいにならないかしら。」
「あ〜それいいねえ。オレンジの着物とか、しのぶさん今度買うの付き合ってよ。」
「いやよ私そんなのと歩くの。」

 ちぇ、とコーヒーを飲み干し、ゴミ箱なんてないよな、と頭を巡らした後藤が声を上げた。

「ありゃ。」
「?」
「松井さんがいるよ。」
「なんですって!?」
「家族と来てるみたい。ちょっと挨拶してくるか。」

 列を離れようとする後藤の裾を、しのぶが思い切り引っ張った。

「後藤さん!」
「はい?」

 無邪気に返す後藤にしのぶは言い淀む。

「その、・・・・・・今はまずいんじゃないかしら。・・・・・・松井さんは知らない訳だし・・・・・・、」
「いいじゃない、付き合ってるって言えば。」
「いやよ!」
「なんで?」

 一瞬つまって、

「・・・・・・恥ずかしいのよ!」

 ほとんど逆ギレのしのぶに後藤は笑い出した。

「後藤さん!」
「いやいや、そーだね。こんなきれいなしのぶさん見せるのももったいないし。」

 臆面もなく言ってのける後藤にしのぶは言葉を失う。
 その時。
 突然悲鳴が上がり、前方の人ごみが乱れた。

「!?」

 すごい勢いで人込みの中を移動している目だし帽の頭が遠目に見える。

「ひったくり、かなあ。」

 後藤が言い終えない内に、しのぶがかがみ込んだ。ぽいぽい、と草履を脱ぎ捨てる。

「あ、しのぶさん?」

 呼び止めるのも聞かず、しのぶは片手で裾をはしょって周りへ呼びかけた。

「警察です、通してください!」

 効果てきめんである。モーゼの十戒よろしく割れる群衆の間をしのぶは走り出した。

「・・・・・・あ〜あ〜、勇ましいんだからもう。」

 後藤は草履を拾い上げた。しかしあでやかな警察だね、とこぼしながら、人込みをかきわけて後を追う。
 先に人込みから抜け出したしのぶの目に、走ってくる男の姿が映った。もう目の前だ。
 鞄を抱えた反対側の手には刃物が光っている。

「どけや、オラア!!」

 男が叫ぶのと、その体が一回転するのが同時だった。
 ずばああん、という音とともにどよめきが上がる。

「警察だ、立て!」

 男の腕をつかまえたまましのぶが鋭く叫ぶ。地べたに大の字になった男の手からナイフがぽろり、と落
ちた。男は動かない。
 頭から落ちたかしら、としのぶがかがみこんだ瞬間、男が跳ね起きた。

     しまった!

 ナイフを拾い上げた男が一歩踏み出す。鞄は持っていない。まずい、と思った。こういう時は逃げるため
に何でもするものだ。

「このや・・・・・・!」

 男が叫ぶと同時に何かが飛んできた。

「!?」

 カーン、と男の顔に当たった瞬間を逃さず、しのぶが男を引き倒す。
 再びどよめく群衆の中から、すっと歩み寄る影があった。

「・・・・・・だめだよ、こんな物騒なもの振り回しちゃあ。」

 後藤が男の手からナイフをもぎ取った。

「後藤さん・・・・・・。」
「お疲れさん、しのぶさん。」

 男を立ち上がらせながら後藤が言う。そばにコーヒーの空き缶が転がっていた。

「・・・・・・ありがとう。」

「いや〜、ゴミ箱が見つかんなくてよかったよ。」

 そうそうはいこれ、と後藤は草履を地面に置いた。赤い顔をしてしのぶはもそもそと草履を履く。

「しのぶさん、手錠持ってないよね?」
「あるよ、手錠なら。」

 声をかけた後藤に、別の方向から答えが返ってきた。

「あ。」
「あ!」
「・・・・・・あ、はこっちのセリフだよ。」

 松井がニヤニヤしながら立っていた。

「まったく、勇敢なお嬢さんだと思ったら、こういうこととはね。」
「・・・・・・!」

 しのぶは声も出せずに固まっている。

「まあ、こういうことなんだわ。」

 後藤が頭をかきながら言った。
 男2人で合わせた視線に何かが交差する。

「今度、これな。」
「え〜、こっちじゃだめ?」

 なんだかよく分からない身振りを交わす。松井が笑った。

「分かったよ。じゃこいつは俺が預かるわ。もう連絡してあるから、早く行った方がいいぜ。」
「悪いね。」
「南雲さん、」

 こそこそと隠れているしのぶに松井は声をかけた。

「お疲れさんでした。」
「いえ!・・・・・・あ、あの、こちらこそありがとうございました。」

 だんだん声が小さくなるしのぶに松井はニヤリとした。

「きれいですよ。お幸せに。」
「!!」

 手をひらひら振って去る松井に返す言葉もなく、しのぶは立ち尽くした。我に返って後藤に詰め寄る。

「後藤さん、口止めしといた方が・・・・・・!」
「大丈夫だよ、千川屋のお汁粉で手を打ったから。」
「今ので!?」
「ほら、早く行かないと、知ってる人ぞろぞろ来ちゃうよ。」

 後藤が手をつなぐ。 

「だったら手なんかだめよ!」
「え〜・・・・・・。もうさ、やっぱり不自由だから公表しない?」
「後藤さん!」
「大丈夫だよ、しのぶさんが言わなくても松井さんに頼めばいいんだから。」
「そういう問題じゃありません!」

 賑やかな2人を輝く初日が照らす。
 結局初詣ができなかったことに2人が気づくのは、もう少し後のことだった。






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