熱の記憶








それは、ゆっくりしのぶの中に入ってきた。
何か言おうとしてしのぶはもがいた。
発したそばから言葉は吸い込まれていき、代わりに温かなものが流れ込んでくる。体をすっかり満たしたそれは内側から
揺れ、しのぶの心地よい場所を絶えず波打った。逃れようとして身をよじっても、全身が熱い何かにおし包まれて身動きで
きない。ゆっくり、繰り返し、撫で上げられて、しのぶは何度も声を上げた。

目が覚めた時の虚脱感といったらなかった。

―――― なんて夢なの・・・・・・。

枕に突っ伏したまま、頭を抱えた。
あんないかがわしい夢を見たこともショックだったが、それよりもしのぶを狼狽させたことがある。
たった今まで自分の口は、誰かの名を呼んでいなかったか。
その名は「ごとう」ではなかったか?
がば、とベッドに起き上がった。
正直よく覚えていない。思い出そうとした。

―――― でも、もし後藤さんなら、もっとこう ―――― 、煙草の匂いとか・・・・・・。

想像しそうになって、慌ててやめた。
引きちぎるように毛布をはがし、ベッドを出た。



     *



「おはよう、しのぶさん。」

びく、と立ち止まったしのぶを追い越して、後藤が不思議そうに覗き込む。

「どうかした?」
「いいえ、あの、おはようございます。」

たっぷり三秒は見つめてから、「ミーティング、始まるよ」と後藤が言った。

「そ、そうね。後藤さん先に始めててもらえる?」
「いいけど。」
「じゃ。」

不審気な後藤を残し、そそくさとその場を離れる。
思い出した。



     *



昨日のことだった。午前中に行った合同訓練からの帰り、しのぶと後藤の間でちょっとした議論があった。もっとも、まくし立
てていたのはほとんどしのぶの方だったが。

「・・・・じゃあ後藤さんは、禁じ手なしで訓練をしろと言うの?」
「いや、実際現場じゃ禁止してばかりもいられん訳だし・・・・・、」
「だからこそ、攻め方を制限した訓練を積んでおくべきなんじゃないかしら? 一つ一つの手段をしっかり極めてからでなき
ゃ、現場の臨機応変なんて機能しないと思うわ。」

階段を登りながら、なおも議論は続く。

「でも柔道や空手の猛者が、ルール無用のフリーファイトで勝てるとは限らんでしょう。」
「あのね、」

振り向いた瞬間だった。

「しのぶさん、前!」

後藤が発するのと、目の前にパイプがぬっと現れるのが同時だった。のけぞったはずみに階段を踏み外す。
落ちる、と思った瞬間、横から伸びた腕がぐいと腰を抱いた。

「あぅ、」

変な声が出る。バランスがかろうじて保たれ、思わず後藤にしがみついた。

「セーフ。」

慌てた様子もなく、後藤がしのぶを引き寄せる。階段の真ん中で、二人抱き合う格好になった。

「申し訳ありません、南雲隊長!」

上から、長いパイプを抱えた整備員が顔を覗かせる。しのぶは慌てて後藤から身を離した。

「いいのよ、私もよそ見していたの。ごめんなさい。」
「気をつけないと、おやっさんに沈められちゃうよ〜。」

青い顔をして詫びる整備員をなだめ、後藤に礼を言って、その場は収まったのだ。
それだけのことだった。

―――― それで、あの夢を・・・・・・?

情けなくて眩暈がする。更衣室に突進し、閉めたドアにどすんと寄り掛かった。
今の今まで忘れていたその些細な出来事が、朝の夢の感触とあいまって、妙にリアルに思い出される。
力強い腕だった。
引き寄せた一瞬、しのぶの体にぴったりと添った体が、意外なほど硬く、締まっていた。

―――― やめやめ!

頭を振り、ロッカーの扉を乱暴に開ける。猛スピードで制服に着替えた。

―――― 疲れてるんだわ、私。

病院に行こうと思った。



     *



―――― 俺、なんかしたのかなあ?

ハンガーで整備員と話しながら、後藤は、また同じ疑問を頭の中で転がしていた。
朝の挨拶からおかしかったしのぶは、遅れてやって来たミーティングで更に不可解な言動を示した。「後藤喜一さん」とフル
ネームで呼ばれ、後藤は椅子ごとひっくり返りそうになったのだ。
そのしのぶが、今は二階からこちらを凝視している。
後藤にはさっぱり分からなかった。身に覚えはないし、どうも、怒っているというのとも違う気がする。

―――― 聞いて、みるかあ。

視線に気づかないふりをして、その場を離れた。



     *



後藤が見えなくなったのを潮に、しのぶは大きく息を吐いた。

―――― だめだわ。

元凶の男を見すえ、何でもないことを確認して、この混乱を整理するつもりだった。うまくいかないのはなぜだろう。
なぜ自分の目は、後藤を追い続けてしまうのだろう。

―――― どうかしてるわ。」

「そうだね。」

背後で突然声がした。飛び上がるほど驚き振り向くと、困ったような男の顔があった。

「何があったの、しのぶさん?」

その瞬間、

―――― ああ・・・・・・、

しのぶは全てを理解した。
踵を返し、夢中で逃げる。
笑ってしまいそうだった。
眩しくて顔を見ることができないなんて。こんな、小娘のような気持ちになるなんて。

「私・・・・・・!」

後藤さんが好きなんだわ。



     *



―――― あれは、やっぱり、そうだよなあ。

三本目の煙草に火をつけて、後藤はまた同じ映像を浮かべていた。みるみる赤くなった顔、こちらを一瞬だけ見た、あのう
わずった目。

―――― うぬぼれても、いいのかなあ。

何かの間違いだと自分に言い聞かせる。そうしなければ、自分の中のタガが外れてしまいそうだった。
待つつもりでいた。
そこのところには自信があった。自分を制して平静を保ち、時が来るまでいつまでも待てる人間だと、後藤は今まで自らを
評価していた。結局それは、その時が来ることなどどうせない、という諦観の上に立つ情けない自信だったのだ。
だから、「その時」に自分がどうなるかなんて、考えていなかった。
こんなに浅ましくなるなんて、本当に知りもしなかった。

―――― 中年男が間抜け面さらして、胸高鳴らせて、何やってんだか。

後藤は立ち上がった。



     *



ノックもせずに隊長室のドアを開けた。しのぶが身を硬くしてこちらを見ている。歩み寄ると、落ち着きなく机の上の物を触り
始めた。

「しのぶさ・・・・・・、」
「言わないで。」

決然と言い、しのぶは顔を上げた。

「変なのは分かってるわ。自分でも分かってるの。ちょっとコントロールできてないだけ。」

話している間にも頬が染まっていく。吸い寄せられるように近づいた。

「来ないで、後藤さん。」

ほとんど懇願に近い、泣くような声。
後藤はため息をついた。そんなに余裕のない顔してるのかね、俺は。

「ごめん、しのぶさん。」

両手を上げる。

「怖がらせるつもりはないんだ。ただちょっと舞い上がってるみたいでね、俺もコントロールできる自信はないけど―――― 、」
「何を―――― 、」
「あなたが好きだ。」
「・・・・・・!」

しのぶが持っていたファイルを落とす。
バサバサバサ・・・・・・、という音だけが、隊長室に響いた。
とうとう言ってしまった。

「絶対言うまいと思ってたんだけどね。案外もろかったよ。」
「・・・・・・。」
「混乱させて悪かった。ただ、しのぶさんの気持ちの整理に、今のも入れてみてもらえると、助かる。」

くるりと背を向けた。
ノブに手をかけた瞬間、

―――― 待ちなさいよ。」

硬直した。
ゆっくり振り向く。愛しい女は立ち上がっていた。

「どうして、くれるのよ。」

涙が一筋、美しい頬にぱたた、と落ちた。

「なんにも、手につかない。こんなの私じゃない。不安定で、不安で・・・・・・!」

顔を覆った手の間から、「後藤さんが好き・・・!」と泣き声が漏れた。
床を蹴り、走った。気がつくと、女を抱きしめていた。

「・・・・・・まあ、落ち着きなさいよ。」

自分と、しのぶに言う。大きく息を吐き、顔を上げたしのぶに「えーと」と声をかける。

「どうしたもんかねえ。」
「・・・・・・何よ、それ。」

しのぶが少し笑った。
キスしそうになった。

「・・・・・・!」

身を硬くして目をつぶる女を見て、体がすくむ。目を開けたしのぶにおそるおそる聞いた。

「また、混乱させちゃう?」
―――― するわよ。」

言うなり、しのぶが後藤の唇を塞いだ。

―――― ああ・・・・・・。

確かにこれは、くらくらするなあ。
貧るだけ貧り合って、唇を離した2人の間から、はぁぁ、と息が漏れる。

―――― 落ち着こう。」
―――― そうね。」

言ったそばから唇が重なる。
バランスを崩し、しのぶが椅子にすとんと腰を落とす。ぐしゃぐしゃにされた自分の髪に手をやりながら、椅子ごと抱き寄せ
た。腹の辺りに、しのぶの熱い息がこもる。

―――― 俺、二番目でいいよ。」
「何の話?」

女が顔を上げた。

「心の整理の話。・・・・・・しのぶさんにも、今まで大事にしてきたものがあるだろうからさ、俺二番目くらいでいいよ。」

二番目にできるなら苦労しないわ、としのぶが呟く。

「なになに?」
「ご親切にどうも、って言ったの。」

目を伏せそうになるしのぶの頬を両手で挟み、覗き込んだ。

「ねえしのぶさん。」
―――― なに。」
「なんでまた急に、目覚めちゃったの?」

しのぶは狼狽したようだった。一瞬乱れた視線が、ふと窓の外にとまる。

―――― 多分、春だからじゃないかしら。」

春のせいでないことだけは確かだ、と後藤は思った。














2007年4月に出た、「木蓮の花」というごとしのアンソロに寄稿させていただいた作品です。
一字一句変えてないので、既に読んだことがある方はごめんなさい。
思えばこの時、アンソロジーというものに生まれて初めて参加させていただいたのでした。原稿の作り方などに四苦八苦し
たことを思い出します。思えば遠くに来たもんだ(^−^)。





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