我慢








 しのぶは敬礼して課長室を辞した。噴き出しそうになる感情を必死で抑え込み、足早に歩く。投げ付け
られた言葉が頭の中をぐるぐる回り、目の奥が熱い。時折すれ違う職員達に笑みさえ浮かべて目礼を返
しながら、ひたすら歩を進めた。
 隊長室に駆け込み、ドアを閉めて大きく息をつく。胸の中のものが開放されそうになったその時、部屋
の奥からガサッと新聞の音が聞こえた。

     後藤さん、いるんだわ。

 緩みかけたものを再び抑え込み、努めて冷静に、更衣室へ向かう。
 広げた新聞の向こうから間延びした声がかかった。

「・・・・・・おかえり。」

 普段と変わらない同僚の声に、しのぶも「ただいま」と返す。大丈夫、いつも通りの声が出せたわ。
 極力後藤の方を見ないようにして、更衣室へすべり込んだ。
 ドアを閉めた途端、我慢していた熱いものがこみ上げる。

「・・・・・・っ、・・・・・・」

 その場にしゃがみ込んだ。抑えることをやめた涙がぼろぼろとこぼれる。
 上層部の方針決定の遅れにより、惨憺たる結果となった事件の後で、食ってかかったしのぶに対して
警備部部長は鼻で笑ってこう返した。

「いい気なもんだな。自分と部下の無能を人のせいにしていればいいわけだ。」

 かっ、と顔が赤くなったのが自分でも分かった。思わず反駁しようとして、しかしそれが部下達と自分を
更に貶めることになりかねないと気づいた。それが「上」のやり方なのだと悟り、しのぶは無言で課長室を
後にしたのだった。
 悔しかった。不当な評価が、弁明の容れられないことが、そして何より自分に部下を守る力のないこと
が。
 無力感に襲われ、しのぶは膝におでこをつけたまま涙をこぼし続けた。

 がたん、という音で我に返る。ドアの向こうで後藤が立ち上がったらしい。

     やだ、早く出なきゃ。

 いつまでも中にいては不自然だろう。でもこんな顔じゃ・・・・・・。
 しのぶは立ち上がり、ロッカーを開いて内扉の鏡を覗き込んだ。思ったとおりのひどい顔だ。絶望的な
気持ちで目の端を引っ張ったりまぶたをつねったりしていると、ばたん、とまた音がした。

     

 どうやら後藤は出て行ったようだ。静まり返る室内に耳をすませ、しのぶはそろそろと更衣室から顔を
出した。誰もいない。

     後藤さん、気づいたのかしら。

 そんなはずない、声は絶対に聞かれないよう注意したし、と考えながら席に戻り、しのぶはそれに気づ
いた。
 机の上でマグカップのコーヒーが湯気を上げている。
 胸がぎゅうっと音をたてた。嬉しいのか苦しいのかよく分からない。しのぶはしかめつらをしてのろのろ
と椅子に腰かけた。
 黒く揺れる液体をしばらく眺めてから、カップを両手に持ち、一気にごくごくと飲み干す。

「・・・・・・これ・・・・・・!」

 カタン、とカップを置いて立ち上がった。不覚だった。泣いた直後で鼻が利かないとはいえ、こんな・・・・・・!

 しのぶは決然と顔を上げて隊長室を出た。居場所は分かっている。



     *



     少しは元気、出たかなあ?

 後藤は煙を吐き出して腕時計を見た。そろそろあれに気づいた頃だろうか。顔を見られたくないだろうと
察して出て来たはいいが、煙草を2本も吸い終えると、喫煙所の寒さが身にしみてくる。3本目の煙草に
火をつけないまま手の中で弄び、俺、いつ頃戻ったもんかなあ、と考えていると、かつかつと靴音が聞こ
えてきた。

     ありゃ。効きすぎたかな?

 目の前で止まった靴から視線を上げると、案の定しのぶがそこに立っていた。
 麗しの君はしかし、ひどい顔だった。腫れぼったい目元、涙の跡の残る頬。そしてひどく紅潮した顔は、
涙の名残か、それとも・・・・・・。

「教えてちょうだい。どうしてコーヒーにブランデーが入ってるのかしら。」

     怒ってるわ、こりゃ。

「あ〜、去年のお歳暮に上海亭のおやじがね・・・・・・、」
「そういうこと聞いてるんじゃありません。」

 ぴしゃりとやられ、後藤はうなだれた。

「しのぶさん、もうあがりでしょ? ちょっとくらいならさあ・・・・・・、」
「どうして、分かったの?」
「え?」
「私が・・・・・・、」

 泣いてたこと、とは口が裂けても言えないらしい。湧き上がる愛おしい気持ちを悟られないよう、後藤は
手の中の煙草に火をつけた。

「ま、なんとなくね。」
「・・・・・・。」

 しのぶが後藤の隣にそっと腰を下ろす。意外に思いながら席を空けてやる後藤に、しのぶは尋ねた。

「後藤さんは、こういうことないの?」

 煙がしのぶにかからないよう吐き出してから、後藤は言った。

「あるよ。」
「どうするの?そういう時。」
「そうだなあ・・・・・・。」

 横目でしのぶの顔をちらりと見た。しのぶは肘をつき、前をぼんやり見ている。両手で支えた横顔が美
しかった。

「きれいなものを見るようにしてる。」
「・・・・・・?」

 不思議そうにこちらを見るしのぶに、こりゃ通じてないなと苦笑して後藤は続けた。

「そういう時って、嫌なことばっかり頭に浮かぶからね、その連鎖を断ち切るために、美しいものを見るの。」
「・・・・・・例えば?」
「・・・・・・。」

     君だよ、とは口が裂けても言えないなあ。

 後藤は煙草の火を揉み消して立ち上がった。

「見せてあげようか。」
「?」
「運転できなくさせちゃったから、家送るついでにね。俺も今日はもう上がれるからさ。」
「でも・・・・・・、」
「とりあえずここ寒いし、部屋戻んない?しのぶさんも今あまり人に顔見せない方がいいだろうしね。」
「あ・・・・・・、」

 しのぶは目元に手をやった。

「ね、顔でも洗ってさ。」
「・・・・・・そうね。」

 しのぶも立ち上がった。

「先に洗面所行って来るわ。」
「うん、そうしなよ。」

 後藤を追い抜きざま、肘にそっと手を触れ、しのぶが小さな声で言った。

「・・・・・・ありがとう。」

 駆け去るしのぶを思わず引きとめそうになり、すんでのところで後藤は思いとどまった。

     なんか我慢きかなくなってきたなあ、俺。

 サンダルの音がぺたぺたと夜の廊下に響いた。



     *



「ああいうコーヒー、勤務中に飲んでるんじゃないでしょうね。」

 夜更けの道は比較的すいていた。後藤はウィンカーを出しながら、「とんでもない」と答える。

「ほんと?」
「当直の時、寝る前に引っかけるくらいだよ。」
「それも一応勤務中よ。」
「でも、おいしかったでしょ?」
「・・・・・・ちょっと、ブランデーの量が多くなかった?」
「そうかなあ。」

 後藤はとぼけている。しのぶはため息をつき、そのまま小さくあくびをした。

「寝てていいよ、まだ少しかかるから。」
「ん・・・・・・、」

 既にしのぶは半分眠っているようだ。まだほんのり赤い顔を、流れるライトが照らしている。余計なこと
を考えないよう、後藤はラジオのスイッチを入れた。



     *



 目的地に到着してエンジンを切ると後藤はハンドルにもたれかかり、隣のしのぶを眺めた。頭を窓にも
たせかけ、首筋をあらわにして静かな寝息をたてる彼女を自分が欲していることに、今やはっきりと後藤
は気づいていた。

     あんな顔見せられちゃうとなあ。

 初めて見たしのぶの泣き顔が、頭から離れない。泣き腫らして決して美しいとはいえないその顔はしか
し、後藤の中で輝きを放ち、胸をしめつけた。

     危ない危ない。

 後藤は頭を振り、しのぶの肩をたたいた。

「しのぶさん、着いたよ。」
「ん・・・・・・。」

 愛しい人が目を開けるのを見届けてから、後藤はドアを開け、外に出た。続いてしのぶも車から出る。
冷気が頭をすっきりさせた。

「・・・・・・すごいわ。」
「でしょ。」

 200mはあろうかというイチョウ並木だった。葉は鮮やかな黄色をひらめかせ、強い風にざわざわと音を
たてている。見上げるしのぶを促して、後藤は歩き始めた。

「よくここに来るの?」
「この時期は時々寄るね。あと2週間もすると銀杏だらけになる。すごい匂いだよ。」

 もう、と後藤をにらみ、それでも楽しそうにしのぶは歩く。

「・・・・・・茶碗蒸し。」
「串焼きとかね。」
「あとはもう知らないわ、銀杏料理。」
「飛竜頭とか、蕪蒸しとか。」
「あ、そうね。おいしそう。」

 しのぶが風に舞う葉を追いかけ、1枚拾う。くるくる回してみながら、呟いた。

「きれいなものを見るのって、確かに、いいわね。」
「元気でた?」
「おかげさまで。お礼は今度でいいかしら。」
「いいよ。十分、」

 俺もいいもんもらったから、と後藤はひとりごちる。え、なに?と、しのぶが振り返った瞬間、突風が吹
いた。しのぶのマフラーが外れて宙に舞う。
 マフラーをつかもうとして2人が手を伸ばしたのが同時だった。
 体をひねったしのぶがバランスを崩す。

「あ・・・・・・、」

 後藤に抱きとめられ、しのぶは煙草の匂いに包まれた。

「ごめんなさ・・・・・・、」

 回された後藤の腕が、一瞬、きつく締まった。
 しのぶの声が途切れる。
 思わず顔を上げると、後藤はなんでもない顔で身を離し、しのぶの両肩をぽん、とたたいた。

「しのぶさん、まだ酔っ払ってる?」
「・・・・・・いいえ!」
「戻ろうか、冷えてきたしね。」

 先に立って歩く後藤の背中を見つめながら、気のせいよね、としのぶは呟いた。



     *



「ほんじゃ、お疲れさま。」
「ありがとう、ほんとに・・・・・・。」
「どういたしまして。泊りがけならもっときれいなもんも見せれるけどね。」
「それはご遠慮するわ。」

 睨みつけるしのぶに後藤は「冗談ですよ」と口を尖らせ、

「じゃ。」

と、車を出した。いつもの後藤さんだわ、やっぱり。テールランプが角を曲がっても、しばらくしのぶはそ
の場に佇んでいた。



     *



 赤信号で車を停車させ、後藤は煙草を探した。
 煙と一緒に胸のつかえも吐き出そうとしたが、うまくいかない。

「・・・・・・やばいねえ・・・・・・。」

 信号が青に変わる。
 俺が泣きそうだよ、と後藤は再びラジオをつけた。







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