満ちる月








「はああー疲れたね。」

 鞄を放り投げてネクタイを緩め、後藤は台所の明かりをつけた。

「ハードだったなあ、今回は。」
「そうね。さすがに体が悲鳴上げてるわ。」

 台所の椅子に腰掛け、しのぶも深い息をつく。
 外国からの要人警護に駆り出されるのは毎度のことだったが、今回の国際環境会議は、規模も期間も
とても小隊2つの手に負えるものではなかった。負えない手に無理矢理押しつけられたハードワークから
やっと解放された夜である。

「まずは乾杯・・・・・・、」

 後藤が冷蔵庫を開ける。しばらく中を眺めてから、何を思ったかドアをぱたんと閉じてしまった。

「?」
「やっぱり、風呂上がってからにしようかな。その方がうまいし。」

 つい、とテーブルに近寄り手をついて、座っているしのぶを見下ろす。

「・・・・・・なに?」
「・・・・・・一緒に、入んない?また。」

 眼が笑っている。
 しのぶもにっこりほほ笑んだ。頬と頬をかすかに触れ合わせて囁く。

「また2人して風邪ひくのはごめんだわ。」

 後藤が目を細める。美しい唇を甘くはみながら、眠いような低い声でねだった。

「大丈夫だよ。今度は首まで浸かってさ・・・・・・むぐ。」

 囁きが妙な声で途切れる。
 塞いだ唇から唇を離して、しのぶはうつむいた。

「今日、ダメなのよ。」
「・・・・・・あ、そうなの。」

 妙な間が流れた。
 別段後藤に落胆した様子はなかったが、何かを埋めなければならないような気がして、しのぶは言葉
を探す。

「・・・・・・ごめんなさい。」

 後藤が笑った。

「謝ることじゃないよ。」
「・・・・・・そうよね。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「せがれにはそれとなく伝えとくよ。」

 一瞬ぽかんとしてから、しのぶが吹き出した。後藤はいつもの顔で「お先、いただくね〜」と風呂場へ消
える。



     *



 入れ代わりにシャワーを浴びたしのぶが風呂場から出ると、後藤は早々と敷いた布団の上にうつぶせ
になっていた。

「風邪ひくわよ、なにもかけないで。」
「・・・・・・うー。」

 突っ伏した枕から声が漏れる。しょうがないわね、と苦笑して後藤の足をぺち、と叩いた。

「ほら、どきなさい。布団かけないと。」
「・・・・・・腰、痛くってさ。」
「年ね。」
「お互いね。」

 やおらしのぶが腰に乗った。後藤が「ぐえっ」と声を出す。

「もう1回言ってごらんなさい。」
「ごめんなさいもう言いません。」

 くす、と笑ってしのぶは腰にあてた手にぐっと力をこめた。

「んお〜。」

 後藤がまた奇声を上げる。

「なに、痛いの?」
「極楽です。」
「もう。」

 背骨に沿って親指を圧しあてていく。筋肉の張った背中を揉みほぐし、また腰に戻って強く押した。

「あぁあぁあ〜。」
「なんて声出すのよ。」
「き〜もちい・・・・・・。」

 緩みきった声が漏れる。

「ほんとに年ねえ。」
「そうだよ。もうガタガタだよ?」

 呻く40男のパジャマの背には、それでも隠すことのできない生気が満ち満ちていた。押すと跳ね返る弾
力の強さに少し驚き、繰り返さずにいられない。感触を楽しみ始めたしのぶに気づいているのかどうか、
後藤は腕も脚もぐにゃりと放り出し、されるがままに揺さ振られている。時折ぐううと声が漏れた。何か動
物じみていて、そそるものがある。
 力をこめるのをやめ、しのぶは広い背中に遊ぶように、手のひらを滑らせ始めた。出っぱりや窪みをパ
ジャマ越しに確かめながら、自分とは違う生き物であることを改めて思う。
 後藤の声が出なくなった。おとなしくしているが、なんとなくさっきより集中しているのが分かる。

 素肌に触りたくなった。

 パジャマの裾からそっと手を入れる。たくし上げながら、意外に熱い肌を指先で舐めるようになぞった。
後藤は動かない。
 大人の男の背中。

「・・・・・・えっち。」
「違うわよ。」

 肩まで滑り上げてそのままかがみ込み、素肌に頬を寄せる。

「違わないと思うんだけどなあ、これ。」
「・・・・・・熱いのね。」
「背中?」
「ええ。」
「男の背中は熱いんだよ。熱の放射板だからね。」

 しのぶが少し笑った。

「なんですか。」
「ここから後藤さんの熱が出てるのね。」
「そ。しのぶさん、背中好きだよね。」
「・・・・・・そうなの?」
「俺が聞いてるんだよ。」

 後藤が笑って背中が揺れる。しのぶは少し考えた。

「そうね、背中見てる方が安心するのかも。こっち向いてる時は何されるか分からないし。」
「ひどいなあ、何もしませんよ。」
「ほんと?」
「紳士だもん、ぼく。」
「へーえ。試していいかしら。」
「?」

 頬を離して起き上がり、脇腹をこちょこちょやってみた。
 後藤がばうん、と跳ねる。

「し・・・・・・、勘弁してよ!」
「あら紳士なんでしょ、我慢なさい。」

 転げ回るさまがおかしくて、しのぶは手を止められなかった。無防備な素肌を縦横無尽にくすぐり回す。
 調子に乗りすぎた。
 男の背中にぐうっと力が入る。と思う間もなく、しのぶは後藤の大きな影の下になっていた。跳ね起き組
み敷く様は虎かなにか、やっぱり動物のようだ。両手は頭の上、深い息とともに上下する胸が見える。

 男だ、と思った。

「・・・・・・紳士が聞いて呆れるわ。」

 たかぶる胸に気づかれないよう、精一杯睨みつける。

「熱い気持ちを真っすぐ伝えるのも紳士のつとめですよ。」
「嘘おっしゃい。獣みたいな顔して。」

 後藤が笑った。

「紳士で獣なんだよ。お得じゃない。」

 いつもと同じ顔のくせに声だけが熱い。しのぶは押さえられた両腕を振りほどこうともがいた。捕えられ
た兎が目に浮かぶ。悟られたくなかった。

「紳士だけの方がいいわ。」
「・・・・・・嘘つき。」

 低く呟いた声が近づいた。唇がこじ開けられ、熱い舌の蹂躙を許す。熱を帯び始めた部分を感じてしの
ぶはうろたえた。

「・・・・・・嘘じゃないわ。」

 反駁と一緒に吐き出された自分の熱い息がいまいましい。そむけた顔を追って後藤が覗き込んだ。

「分かるんだよ。今日のしのぶさんはいつもと違う。」
「・・・・・・な・・・・・・、」
「女だ。」

 喉笛に喰らいつかれて声をあげてしまった。「いつもと違う」部分が脈打つように熱い。だから本気で抵
抗した。

「ねえ・・・・・・だめって・・・・・・、」
「おれももうだめ。」
「そうじゃ・・・・・・、あ!・・・・・・、」

 狂おしく暴れる舌がパジャマの乳首を捕える。もうずっと前からそこは欲しがっていた。

「ね、いつもと違うでしょ。」

 声のする方に目を向ける。透けて見える尖った乳首は赤い舌の下で哀れわなないて、それでも待って
いる。ゆっくりと先端をほじられるのが見え、しのぶは声を聞いた。このはしたない声が自分から出ている
ことに気づくのにしばらくかかった。

「もっと聞かせて。」
「・・・・・・!」

 声にならない声でしのぶは「助けて」という意味の言葉を放つ。
 後藤が一瞬顔を離して何か言った。「ダメ」と聞こえた。
 後藤の脚が膝を割って入り込む。

「後藤さん・・・・・・、ほんとにダメ・・・・・・!」
「大丈夫。」

 その熱い部分に膝が押しあてられた。熱が悲鳴のようにじんじんと響く。こんなことは今までなかった。
 こんなところに触れられるなんて。

「いやあ・・・・・・!」

 後藤の膝がゆっくりと動く。合わせて動きたい衝動をしのぶは必死で抑えた。自分が信じられなかった。
 どうして、と思う。
 どうしてこの男は時々私に憎まれることを選ぶのだろう。
 黙ってこちらを見つめる顔を睨みつけた。一瞬、後藤が、困ったように笑った。 

「感じて、欲しいだけ。」

 男が呟く。少し悲しげな声。
 腕が解かれ、男によって導かれる。しのぶの手が男の目にあてがわれた。

「見ないから。」

 男の手がしのぶの目を覆う。暗闇に声が聞こえる。

「・・・・・・感じて。誰も見てないから。」

 急に不安になった。分かっているのに後藤を確かめたくて、あてられた手に触れる。その手に後藤の唇
が触れた。

「・・・・・・しのぶさん・・・・・・、」
「・・・・・・。」
「・・・・・・しのぶさん・・・・・・。」

 再び男の膝があてられ、しのぶが少しだけそこを開く。ゆっくりとした動きに揺られ始める。
 しのぶに目を塞がれたまま後藤の顔が蠢く。唇だけで先刻の尖った場所へたどり着き、ついばんだ。

「・・・・・・っ、・・・・・・」

 しのぶの漏らす息だけを頼りに、男の唇が乳首を嬲る。あっ、あっ、という短い声があがり始めたのを契
機に、音を立てて吸い、舌で細かく弾いた。

「ああああ・・・・・んあっ・・・・、」

 しのぶの姿が見えなくても全然構わなかった。膝に合わせて波打つ動きとその声、なにより男の手を握
る彼女の手にすべてを感じられた。

「ごと・・・・・・さ・・・・・・、」

 大好きな声で彼女が自分を呼ぶ。

「いい・・・・・・?」

 握る手にぎゅっと力が入る。

「・・・・・・い・・・・・・。」

 「いい」でも「いや」でもこの際よかった。彼女が感じている。自分を求めている。

「嬉しい。」
「・・・・・・。」
「好きだ、しのぶさん。」

 女が身を震わせる。察して動きを大きくすると、細い顎がせり上がるのが分かった。あらん限りの力で
締め付けられた膝が急に解放される。
 唇を求めてほどこうとした小さな手が、まだ後藤の目から離れない。

「見えないよ、しのぶさん。」
「・・・・・・見ないで。」
「キスできないよ。」
「・・・・・・できるわ。」

 柔らかな唇が急に押しあてられた。互いに目隠ししたままの、不器用な接吻がちょうどよかった。

「・・・・・・ねえ、さっきの、本当?」

 合わせた唇の隙間からしのぶが問う。

「なんだっけ?」
「いつもと・・・・・・、違うって。」

 後藤が笑ったのが唇の形で分かったらしい。

「いいわ、やっぱり言わなくて。」

 後藤の言葉より先にしのぶが被せる。急に手が離されて、やっと開けた視界のずいぶん隅の方にしの
ぶは移動していた。

「俺、なんも言ってないよ。」
「だから言わなくていいわよ。」
「あ、そうね。その方がいいかもね。・・・・・・ぶほ!」

 急に枕が飛んできた。

「しのぶさん! ごめん! ごめんなさい!」
「口きかないわよ!」
「しのぶさん・・・・・・、」

 背を向けた彼女の方へもそもそと向かう。

「おれ、まだなんだけど・・・・・・。」

 怒りに燃えた瞳を受けて言葉が止まった。

「いえ、なんでもないです。はい。」

 しょんぼりと背を向けた瞬間、ぐらりと体が揺れた。何だかわからないまま押し倒されて両手を頭の上
で押しとどめられる。

「しのぶ・・・・・・さん?」

 りりしい顔は影になってよく見えないが、笑っているようだった。

「・・・・・・覚悟はいい?」

 大好きな声が今は少しだけ怖かった。






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