無風
バシーン!と叩きつけられた書類の音に、後藤は身をすくめた。
キーボードをずず、と引き寄せ、画面を覗き込むふりをする。立ったまま受話器を取り上げ乱暴にボタン
を押すと、しのぶは無表情な声で喋り始めた。
「南雲です、戻りました。・・・・・・ええ、無駄でしたわ。・・・・・・いえ、結構です。後で報告書を上げますので。
じゃ。」
受話器を置き、無言でどす、と座る。
通らなかったのか。
今の会話で充分だった。上申書を上げ、他の部署に根回しを頼み、嫌いなマスコミまで利用して本庁を
動かそうと獅子奮迅したここ数ヶ月の彼女の努力は、今日ついえたのだ。報告を受けるまでもなく、課長
の耳には既に一切の顛末が入っているのだろう。
モニターから少しだけ顔を出すと、燃えるような瞳と目が合った。慌てて顔を引っ込める。
「 何よ。」
「いえ何でも。」
ああもう!と叫んでしのぶは立ち上がった。
「後藤さんも全部知ってるんじゃないでしょうね。」
「まさか。」
「・・・・・・。」
少し気がそがれたような顔をして、しのぶは額に手を当てる。
「 そうね、ごめんなさい。八つ当たりしたわ。」
「残念だったね。」
心の底から言った。椅子にへたり込み、背もたれに突っ伏す女の髪の間から、くぐもる声が聞こえる。
「・・・・・・大人になれって言われたわ。」
「大人、ね。」
「・・・・・・。」
それきりしのぶは何も言わない。しばらく眺めてから、後藤は唐突に言った。
「しのぶさん、これ行かない?」
「・・・・・・?」
顔を上げたしのぶに、伸ばした人差し指をくいっと上げてみせる。ムスッとした顔のままそれを眺め、しの
ぶは「いいわね」と言った。
「あれ、いいの?」
「いいのよ、もう知るもんですか。」
まるで出動に向かう時のように、勇ましく立ち上がる。
*
二本の釣り糸の先で、浮きがぷーかぷーかと揺れる。
釣りは全く初めてらしかった。少しはしゃいで仕掛け作りを見ていたしのぶは、今、頬杖をついてぼんや
り浮きを眺めている。ちらりと見やり、後藤は煙草の灰を落とした。
「・・・・・・大人って、何なのかしらね。」
気の抜けた声でしのぶが言う。「んー」と答えて、後藤は自分の竿を一度上げた。餌がなくなっている。
「大人じゃないの? しのぶさんは。」
糸を引き寄せる後藤を見ながら、しのぶは「分からないわ」と言った。
「・・・・・・警察官になりたての頃の先輩達をよく思い出すの。周りがちゃんと見えてて、その中で自分をコ
ントロールできて、迷いなんかないように見えた。・・・・・・あれが大人なら、私なんか、」
口をつぐみ、ため息をつく。
「・・・・・・いい年して、馬鹿みたいよね。」
餌をつけ直し、後藤はまた釣り糸を垂れた。
「迷いがない人なんていないよ。」
「・・・・・・そう、なのかしら。」
煙草をくわえ、しのぶの竿をひょいと上げてみた。やはりやられている。
「・・・・・・シュレーディンガーの猫って知ってる?」
「何ですって?」
しのぶが眉をひそめる。
「量子力学の考え方でね、箱の中に放射性物質と猫を入れたとする。放射性物質が何とかっていう粒子
を出せば猫は死ぬけど、粒子が出る確率は二分の一なんだ。猫は死ぬかもしれないし、死なないかもし
れない。この状態を、どっちかじゃなくて、どっちも重なり合ってる、と捉えるわけ。」
「重なり合ってる?」
「猫は死んでいて、かつ、生きている。二つの状況が同時に存在してる、っていう考え方。」
餌を付け直し、仕掛けをほうった。トプン、と音がして、餌が沈んでゆく。
「 この水の下で魚は釣れていて、そして釣れていない。」
「難しいわね。」
「うん。でも、そういうのが楽しめる人は大人かもね。」
「・・・・・・。」
考え深げに、しのぶは竿先を見つめた。
「・・・・・・後藤さんは、楽しめるの?」
「場合によるなあ。」
後藤は笑った。
「釣りならいいけどね。太田は発砲しているし、していないなんて話になると、ちょっと楽しめないなあ。」
「あら、楽しんでるじゃない。」
しのぶが頬杖から顔を離す。
「そう見える?」
「ええ、いつもとっても楽しそうだわ。十分大人でいらっしゃるわよ。」
つんと横を向くしのぶの唇が、少し上を向いている。かわいいな、と思った。一つの仮定が頭に浮かぶ。
隣の人は俺を好きで、かつ、好きでない。
・・・・・・。
「・・・・・・どうにも楽しめないこともあるなあ、やっぱり。」
「あら、なあに?」
振り向く顔を、黙って見つめた。少し居心地悪そうに、しのぶが海へ視線を戻す。
凪の時間だった。空気はぴたりと静止して動かず、微かな波音だけが繰り返される。
二人竿先を見つめたまま、時が止まった。
「・・・・・・私には無理だわ。」
不意に、しのぶが言った。
膝に手を置き背を伸ばして、真っ直ぐ前を見つめている。
「・・・・・・無理?」
「やっぱり、私はどっちかを目指したい。魚は釣れて欲しいし、太田くんには我慢を覚えて欲しい。」
「・・・・・・はは。」
決意に満ちた声を出す彼女の、横顔は意外に穏やかだった。眩しくて、後藤は束の間言葉を失う。この
女が欲しいと思った。
「 子供かしらね。」
しのぶが一人笑う。
「さあ、分からないけど、」
煙草を缶に押しつける。サイレンがけたたましく鳴った。「好きだよ」と言った。
しのぶが耳に手をやる。
鳴り終わった途端、目を覚ましたようにハンガーが機械音を上げ始めた。ちゃっちゃとそこら辺を片付け
る後藤に、しのぶが尋ねる。
「ねえ、なんて言ったの?」
「ん?」
釣り具をぶら下げ、立ち上がった。
「がんばります、ってね。」
「何よそれ。」
しのぶが吹き出す。
凪はどうやら終わったらしい。
風が吹いて、黒髪が流れた。
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