表札と暮らし
Apr.5
たまたま自分は目の前にいただけだと思う。
「夜桜を観に行かぬか」と侍に誘われたとき、次元は咄嗟に顔をしかめてみせた。
「――― いいけどよ。」
面倒くさそうな声で言えたはずだ。思わぬ誘いに色めきたった心中を、悟られるわけにはいかない。
東京、23時、4月5日。
この時期の日本はいつも中途半端だ。寒いんだか春なんだか、浮かれていいんだかまだ早いんだか、はっきりしなくて
落ち着かない。見事な大咲きを誇る千鳥ヶ淵の手すりにもたれ、ワンカップで二人だけの立ち飲みパーティーが始まった。
「乾杯。」
珍しく侍が音頭を取る。こぼしかけ慌てて口をつける横顔を盗み見ながら、次元は思う。
――― 浮かれていいんだか、まだ早いんだか。
こぼれんばかりの満開から、淡いピンクが一ひら落ちた。闇を縫う軌跡をうっとり目で追う侍を、同じ顔して盗み見ている
自分に気づき、次元は思わず咳払いする。
「――― しかし何だな、言いたかねえけどよ。」
「?」
こちらを振り替える侍に、顎で周囲を示してみせた。
「ここだけ随分浮いちゃいねえか。」
「・・・・・・。」
言われて侍も辺りを見回す。こんな道っ端で夜遅く、わざわざ立ち止まって花なんか眺める人間は、それなりの理由を
持つ者たちに限られていた。要するにカップルだらけの周囲に五右ェ門も気づいたらしく、「なるほど」とのんびり返す。
「お前も綺麗どころ誘えばよかったのにな。誰かいねえのかよ。」
サラリと冗談めかして口にした。いつもなら触れない領域に踏み込んだのは、多分この中途半端な夜風のせいだ。今な
ら酔いどれの軽い揶揄で済む。カップの残りを飲み干して、じりじりしながら返答を待った。
ほろほろっと桜が零れる。つられるように侍が笑った。
「桜が主役でござる。観客に男も女もあるまい。」
「・・・・・・。」
肩をすくめ、空になったカップを地面に置いた。知りたかった答えは得られず、既に分かっていたことだけがはっきりした。
自分が連れて来られたのはやっぱりたまたまだ。
「まあ誰でもいいか、お前は。色恋より風流か。」
「どうした、今日は絡むな。」
楽しげに五右ェ門がこちらを見る。足元のコンビニ袋の中からもう一本出して蓋を開け、次元に差し出した。
「では聞くが、お主はどうなのだ。」
「俺?」
「うむ。お主なら花を見るのに誰を誘う。」
俺なら花見になんか来ねえよと言いかけて、次元は思い直した。こんなとこまでノコノコついてきた恥かきついでだ。こう
なりゃ無理矢理浮かれてやるさ。
「そうだな。俺ならもちろん、憎からぬ相手を連れてくる。」
手すりに手をかけ、身を乗り出した。おもしろがって侍が「ほう」と相槌を打つ。
「並んで花眺めてるだけで心がくつろぐような、気兼ねのいらない相手だ。ずーっと黙ってたって問題ねえ。飲んでぽつぽ
つ話すのもいい。」
「ずいぶん具体的だな。」
笑う五右ェ門の横顔を見つめ、「そうさ」と次元は返した。
「考え方も笑うところも俺とは違う。でも、そいつといると時間が変わるんだ。あっという間に過ぎちまう。特別なことなんか
何もねえのに浮かれちまって、もう少しだけ一緒にいたいと思う。そんな相手だ。」
「・・・・・・。」
笑って桜を眺めていた侍が、不意に手の中の酒に視線を移す。それから次元を見た。
「どうした? 五右ェ門。」
朗らかな調子で声をかけた。いま話した相手が誰なのか、侍に気づかれる心配はしていない。石川五右ェ門はそういう男
で、次元にはそこが愛しかった。手にした酒を一息に飲み、侍が口を拭う。
「――― 惚れると、そういう感じになるか。」
「? まあ、人それぞれじゃねえか。」
「今、拙者―――、」
突風が、全ての音を消した。
耳にぶち当たる空気の塊が、髪の毛もネクタイも持って行こうとする。飛ばされた帽子より、侍の方が早かった。仕込み
刀の鞘に引っ掛かったそれがくるくる回る。二秒ののち、何事もなかったように町の喧騒が戻ってきた。
「・・・・・・サンキュ。」
「・・・・・・うむ。」
差し出した手に、侍が帽子を返した。初めて見るような顔つきで次元を見つめている。何か必死に思案している。混乱した
表情を、次元も凝視した。
――― 今、拙者―――、
五右ェ門。お前―――、
今、「そういう感じ」なのか?
風に乱された侍の顔が、カップ酒一杯にしてはやけに赤い。一歩、次元は踏み出した。
ぼさぼさ頭にぼすっと帽子を被せると、弾かれるように五右ェ門が手をやる。
「な、なんだ。」
「帰るか? 風が強くなってきた。」
「・・・・・・。」
帽子を支えたまま、侍は桜の大木を振り仰いだ。次元に背を向けて呟く。
「――― もう少し、ここにおらぬか。」
「・・・・・・ああ。」
もうこれは、と次元は考える。
浮かれていいんじゃねえか。いや、俺はもう舞い上がっている。
待て、まだ早い、と自分に言い聞かせた。
俺は今までさんざん悩んだ。こいつはこれからだ。
夜の電車から漏れる明かりが、そよぐ花とあいまって揺れる。
「いい桜だな」と侍に言った。
どこか上の空で侍が、「そうだな」と言った。
春の宵の、日付がもうすぐ変わる。
ほんとは4月5日にこれをアップしたかったんですよ! うえーん(^−^)!
もろもろの事情で、18日遅れてのアップとなりました。東京の桜はもう散っちゃったようえーん(^−^)!
まあ4月以内に上げられたのでよしとします。次五の日おめでとう次元とごえもん(^−^)!
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