アクシデント








 想像を超える惨状だった。

 2時間かけてたどり着いた奥多摩山中の気温は、都心に比べて3度は低い。寒風と熱風の入り混じる
中、しのぶは夥しい火の粉を眺めてしばし立ち尽くした。空っ風に煽られた業火は衰えも見せず、今や山
頂の方まで舐めようとしている。

「隊長、」
「延焼を食い止める。デッキアップ。ここから5メートル伐採。」
「はい。」
「専用チェーンソー、ロープの用意はできてる?」
「大丈夫です!」

 500メートルと離れていない所に電波塔がある。本職の消防レイバーは、圧倒的に台数が足りていな
かった。早さと器用さならAVSもひけを取らない。望む所だった。

 隊員達が速やかに配置につく。せり上がる機体を横目に、地図を広げた。無線が鳴る。

「南雲、」
『やあ、遠路はるばるお疲れさん。』
「・・・・・・。」

 訳もなく回線を切りたい衝動に駆られた。毎度のことながら、張り詰めている時にこの声を聞くと、本当
に調子が狂う。

『いや〜しかし大変だねえこれは。』
「後藤隊長、用件が愚痴なら切りますけど。」
『いやいや、愚痴も大事な用件だけどね、もう1つ。』

 今見えている稜線の向こう側に、後藤とその部下達はいるはずだった。そこからも煙が上がっている。
付近には確か変電所がある。

『どうお? そこで止められそう?』

 明日は晴れるかねえ、と言っているのと同じ調子だ。

「そうね、ダラダラ交信を引き延ばす人がいなければ。」
『そんなけしからん奴がいるのかね。』
「切るわよ。」
『あー待って、あのさ、』

 稜線が一瞬光った。
 無線が切れた。
 それから、ドーンという轟音が響いた。

「後藤さん!?・・・・・・後藤さん!」

 カチカチと無線のスイッチを入れ直す。シャー、というノイズだけが流れた。

「隊長!」

 隊員の1人が走って来る。

「変電所の方が・・・・・・。」

 しのぶは無線機を元に戻した。

「連絡は・・・・・・、」
「不通だ。こちらでやれることはない。作業急げ。」
「・・・・・・はい。」

 走り去る隊員の背を眺める。ハンドルを握る指が白くなっていることには気づかなかった。



     *



 パラパラと瓦礫の落ちる音がする。
 舞い上がる埃で、フロントガラスの前は灰色一色だった。無線機からは何の音もしない。指揮車を出た。
腹から声を出す。

「全員無事か! 点呼取るぞ! 熊耳!」
「はい!」
「進士!」
「います!」
「山崎!」
「大丈夫です!」
「太田!」

 返事がない。ハッチがバクン、と開く音がして、野明の声が聞こえた。

「2号機、ここでひっくり返ってます! 太田さん! 太田さん!」
「野明、お前いま出るな!」

「太田ぁ!」と叫ぶ遊馬の方へ「待て、篠原!」と後藤は声をかけた。

「山崎、進士、太田を救出しろ。」
「はい!」

 少し視界がきくようになってきた。
 熊耳が走って来る。

「隊長、今の爆風で非常扉が開きそうです。中の職員を救助できるかもしれません。」
「よし。泉と篠原はそっちにかかれ!」
「了解!」
「熊耳はトレーラー出しといて。怪我人を収容する。」
「了解。」
「後は・・・・・・、」

 ドオオオォォォン・・・・・・・!

 突然鳴り響いた不吉な音に首を巡らせ、隊員たちはみな声を上げた。

「あ・・・・・・!」

 山の向こうから黒煙が上がっている。みるみる内にそれは大きさを増していき、一帯を黒々と埋め尽くし
た。

「うわぁ・・・・・・、」
「第一小隊のいる辺りじゃないですか・・・・・・。」

 呻き声が上がる。のしかかるような黒い空から、後藤は目を背けた。固まっている部下達に向かって、
パンパンと手を叩く。

「指示は聞こえたろ? お仕事にかかってちょうだいな。」
「・・・・・・はい!」

 バラバラと散る部下達を見送り、指揮車に戻った。無意識に無線を取る。
 無音だ。分かっていた。
 力任せに叩き付けた。



     *



 夜の警察病院は無機質を通り越し、まるでSFのようだ。
 病室を出ると、非現実的な緑の灯が目に入る。まっすぐ時間外受付へと向かった。

     何か。」

 若い看護師が顔を出した。

「あ、特車二課の後藤です。第一小隊がここに着いたと。」
「ああ、いま搬送されました。救急室です。」

 心臓がゾクン、と鳴った。

「誰だか、分かりますか。」
「いえ・・・・・・、入ったばかりで、名前はまだ・・・・・・、」

 終わらない内に、飛び出していた。
「走らないで!」という声が、暗い廊下に響く。

 無線が切れる直前の会話が、不意に脳裏をよぎった。あのままいつまでも、のらりくらりと続くものだと
思っていた。

     切るわよ。
     あー待って、あのさ、

 あの後、自分は何を言おうとした?

     しのぶさん。

 曲がり角を折れた瞬間、誰かが突進してきた。後藤とまともにぶつかり、悲鳴を上げる。

「きゃあ!」
「・・・・・・!」

 咄嗟に言葉が出なかった。
 たった今まで浮かべていた人物と、目の前の女が、どうしても結び付かない。

「ご・・・・・・、」

 まるで声を奪われたかのように、しのぶも口を開け、停止している。
 廊下の蛍光灯が、ふいに明滅した。

「・・・・・・元気だった?」

 やっと喉から搾り出した言葉に、しのぶは心底がっかりしたようだった。

「・・・・・・何よそれ。」
「いや、元気ならいいんだ。」

 堰を切ったようにしのぶがまくし立てる。

「元気じゃないわよ、石和くんがやられたわ。1号機も腰をやられて再起不能だし。そっちはどうなの?」
「ああ、太田が包帯だらけになってる。まあ、いつものことだよ。」
「そう。・・・・・・大変だったわね、お互い。」
「うん。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」

 言うことがなくなった。

「・・・・・・じゃあ。」
「うん。」

 回れ右をして、しのぶが元来た道へ引き返してゆく。少し見送ってから、後藤も踵を返した。

 膝が、かくん、と折れた。

 あれ。

 床にふにゃりと尻を付く男を、明滅する光がただ照らす。立ち上がろうともせず、後藤はぼんやりと灰色
の床を眺めた。
 元気だった。よかった。
 しのぶの後ろ姿が、頭から離れない。

 あれ?

 突然、それに思い至った。
 突進してきたしのぶは、急いでいた。
 自分と話して、それから、のろのろと戻って行った。

 何しに来た?

 後藤は立ち上がった。
 さっきの場所に戻る。曲がり角を曲がる。
 廊下の奥。

 しのぶが、へたり込んでいる。

 心臓が早鐘を打った。
 足音に振り返り、女が慌てて立ち上がる。

「し、」
     ちょっと、疲れが出たのよ。」

 おっかぶせるように、しのぶが言った。

     愛しい。

 背を向け、歩き出す姿に、呼びかけた。

     しのぶさん。」

 凍り付いたように、女が足を止める。
 何と続けていいか分からず、後藤はほとんど狼狽した。

「・・・・・・飲み、行かない?」
「・・・・・・。」

 またがっかりしているのかもしれない。後ろ姿では分からなかった。

「・・・・・・今日はしんどいか。じゃ、」
「行くわよ。」
「・・・・・・。」

 返事をすることも忘れ、女を見つめた。



     *



「大体ねえ、部下にそんな危険なことさせるなんてどうかしてるわよ。」

 元気なんてものではない。
 席に着くやいなや熱燗を1本空けたしのぶは、何かから解き放たれたかのように気焔を吐いた。

「俺がやれって言った訳じゃないよ。」
「止められなかったんでしょ、同じことよ。」
「まあね。」

 すみませんお銚子2本、と声をかけ、しのぶがぐりん、とこちらを向く。

「それにね、予備の無線くらい持って行きなさいよ。」
「はい。」
「本当に反省してるの?」
「心から。」

 嘘ばっかり、と呟いてしのぶはカウンターに突っ伏した。くぐもった声で言う。

「どれだけ気を揉んだと思ってるのよ。」
「ごめんなさい。」
「ふん。」

 伏せた顔を向こうに向け、「お酒、遅い」とムニャムニャ言った。

「ごめんね?」
「・・・・・・。」

 それきりしのぶは口をきかなかった。
 燗が2本届く。

「しのぶさん、お酒来たよ。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・寝ちゃった?」
「・・・・・・。」
「しのぶさん、」
「・・・・・・。」
「好きですよー。」
「・・・・・・。」

 やはり返事はなかった。

「まあ、いいか。」

 口をつけた酒は、随分ぬるかった。



     *



「お客さんすみません、そろそろ・・・・・・。」

 店員の声にしのぶは飛び起きた。

「あっ! え!? すみませんええと・・・・・・。」

 クスクス笑う店員に勘定を払った頃、ようやく状況が頭に戻ってくる。追加した徳利2本を空にして、後藤
は眠っていた。

「後藤さん起きなさい、ほら!」
「んあ〜? はいはい・・・・・・。」

 グズグズの後藤を引きずるようにして店を出る。戸口まで出して、「ちゃんと立っててよ!」と叱り付けて
から、タクシーを拾った。

「ほら乗って! もう!」
「ん〜・・・・・・。」

 しのぶも乗り込み、運転手に行き先を告げて、ようやく息をつく。途端に後藤がずりずりと寄り掛かって
きた。

「・・・・・・ちょっと。後藤さん。」

 んごおぉ、といういびきがそれに応える。

「後藤さん、寝てるの?」
「・・・・・・。」

 肩の重みが増す。男の匂いがした。
 重みはしかしなぜか邪魔ではなかった。意外なほどの安心感を伴って、しのぶを少しだけくつろがせる。


「・・・・・・分かってるわよ。」


 呟いて、外を見た。
 ぼんやりとした頭に深夜零時の夜景は、どこか他の国のもののように映る。


 後藤の重みに、一瞬、体を預けた。
 まだ、もうちょっと、このままで。


「あ」と言って起き上がる。

「運転手さんすみません、次の信号で曲がってください。」

 ウィンカーを出して、タクシーが左折した。
 弾みでずり落ちそうになった後藤が起きたらしい、もそもそと体勢を元に戻す。


 ちぇ、という声は車の音に紛れた。






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