VS.
「ここんとこ毎日だぜ、やっこさん。」
背後からかけられた声に、すぐ応えることができなかった。一呼吸おいてから「はあ」と返す。小指1本
の動揺は、見られずに済んだはずだ。
鉄柵にもたれる後藤の横に並び、榊も階下の男を見下ろした。
「先週かな、俺んとこにも挨拶に来たが。」
「・・・・・・どういう人なんです?」
「菱井の営業だと。」
ハンガーの2階からでは、男の顔はよく見えなかった。一緒に立っている、しのぶの表情も。
男の身振りが妙に大仰に映る。
「売り込み、ですか。」
「ああ。ずいぶん仕事熱心だ。見たとこまだ若そうだしな。」
榊がニヤリと笑う。
階下の2人に背を向け、後藤は鉄柵にもたれかかった。
「・・・・・・いいんじゃないですか。」
「気にならねえのか。」
黙って煙草を取り出し、ライターをカチリとやる。どうせしのぶは見ていないのだ。
「いろんなメーカーからお声がかかるなんて、むしろありがたいくらいですよ。篠原一本で行くと決めてる
わけじゃないし。」
「機械の話じゃねえんだがな。」
「・・・・・・。」
煙を吐き出し、後藤は天井を仰いだ。
「・・・・・・どっちにしても、いい話でしょう。」
「本気で言ってんのかい。」
「・・・・・・。」
返事の代わりに差し出した煙草を断り、榊は持ってきた回覧ボードでぽん、と後藤の肩を叩いた。
「ま、俺の口出すことじゃなかったな。忘れてくれや。」
邪魔したな、と言い残し階段を降りて行く。
ごましお頭が完全に見えなくなってから、後藤は再び鉄柵に身を乗り出した。先刻まで男が抱えていた
書類の束は、しのぶの手に移っている。
2人の肩が小刻みに揺れた。
「・・・・・・いい話じゃないの。」
思い切り吸い込んだ煙草が、きゅうううと音を立てた。
*
ノックの音に応えると、「後藤さん、開けてくれる?」と声がする。ああ、と思い当たりドアを開けた。
迎え入れたしのぶが、両手いっぱいの書類をどさりと押し付けてくる。
「なに?」
「レイバー買いませんか、って。」
「ガッツあるねえ。」
「みたいね。」
ふう、と一息ついてしのぶは自席に腰を落ち着けた。
「イングラムやAVS導入の経緯が伝わってるのよ、きっと。現場の賛成を取り付けるのに必死なのね。」
「・・・・・・そうかなあ。」
しのぶが片眉を上げる。
「あら、そう思わない? こと装備の導入に関してだけは、私達の発言が容れられてるというのが実感だ
けど。」
その話ではなくてね、彼が足しげくここに通う目的の話。
とは言わず、後藤は書類の1枚をぴらりとつまみ上げた。
「・・・・・・最近のレイバー屋さんって、いろんなもの扱うんだねえ。」
「?」
後藤のつまんだミュージカルのチラシに目をとめ、しのぶは「ああ」と気のない声を出した。
「なんだかチケットが余ってるんですって。」
「へえ。行くの?」
言った途端、腹の奥がぎくりと痛んだ。
「まさか。」
しのぶが事もなげに言う。
「後藤さんはお忘れかもしれないけど、公務員よ。そういう歓待を受ける訳がないでしょう。」
「・・・・・・。」
「そういう」歓待じゃないとしたら?
聞こうとして、やめた。鈍い痛みがまだ消えない。
「適当に処分しておいて。どうせ行かないもの。」
隊長室を後にするしのぶの背を眺めながら、腹をぐるりと撫でた。
思いのほかダメージが深い。
*
「 後藤さん!」
微かな予感と共に振り向くと、果たして、一昨日の男の顔があった。声をかけたしのぶが駆け寄って来
る。
「どうせなら一緒に話聞いた方が早いでしょ。時間ある?」
ああ、と答え、微妙な顔で近付いて来る男に笑顔を向けた。
「はじめまして。第二小隊の後藤です。」
しのぶが、え?と聞き咎める。男が少し慌てて挨拶した。
「すみません、もっと早くご挨拶に伺おうと思ってたんですが・・・・・・! 菱井インダストリーの大竹と申し
ます。お噂はもう、かねがね。」
「あ、噂ね。」
しのぶを見やると、目を反らされた。2人の様子をさりげなく見交わしてから、大竹が口を開く。
「よろしいですか、お時間。」
「ああ、はいはい。いくらでもありますよ。隊長稼業なんて実際暇なんだから。」
「『後藤隊長の稼業は』と言ってちょうだい。他の隊長と一緒にしないで。」
「・・・・・・は〜い。」
応接室に大竹を通す。
30そこそこといったところだろうか。
実際の歳よりも若く見えるタイプらしい。誠実さと回転の早い頭、それに少しの図々しさは、営業職にう
ってつけの資質と見える。
熱心なセールストークの合間に、大竹は様々なサインを散りばめた。問題は、受け取るべき相手にそ
のサインが伝わったかどうか、である。
「・・・・・・いかがでしょうか。」
ひとしきり話し終えた男が、2人を見回す。「後藤さん」と小突かれて「あぁ」と声を出した。
「よく分かりました。伺った内容ならメリットは確かにあります。後はうちのスキームに馴染むかどうかで、
そこは、今まで蓄積したデータとちょっと突き合わせてから判断したいですね。」
意外そうな表情で、しのぶがこちらを見る。
「そうですか、どうぞよろしくお願いします。」
大竹が頭を下げた途端に、出動のサイレンが鳴り響いた。しのぶが立ち上がる。
「うちだわ。大竹さん、ごめんなさい。」
「あ、とんでもありません。ありがとうございました! どうぞお気をつけて。」
大竹が勢いよく立ち上がる。
「後藤さん、あとよろしくね。」
「はいはい。」
しのぶが出て行っても、大竹はまだ開いたドアの方を見ている。後藤ものそりと立ち上がった。
「じゃ、外までお送りしますよ。」
「あ、いえ、あの・・・・・・、」
「あ、整備の方へ寄られます?」
「いえ・・・・・・、」
言いあぐねてから、思い切ったように大竹が「後藤さん」と切り出す。思い詰めたような目の色に、しまっ
た、と思った。
「・・・・・・これは、仕事とは別の話なんですが。こんなことを聞いて、気を悪くしないでください。」
「はあ。」
「その・・・・・・、ご存知でしょうか・・・・・・、南雲さんに、決まった人がいるかどうか・・・・・・、」
突っ立ったままの男2人に、沈黙が流れた。
「・・・・・・なぜ、私に?」
「後藤さんが一番よくご存知だと思いました。」
「そりゃ光栄だ。」
大竹は表情を崩さない。おどけて上げた手のやり場に困り、後藤は頭をかいた。
「・・・・・・残念ですが、ご期待には添えないなあ。私は知りません。」
「そう、ですか。」
男が息を吐く。
「・・・・・・そうですね。不作法なことをしました。申し訳ありません。」
深々と頭を下げてから、後藤の目を見据え、言った。
「直接聞くしかない、ですよね。」
「・・・・・・。」
肩をすくめてみせた。応接室を出ると「ここで」と大竹は見送りを固辞し、それから、ふいに笑顔を見せ
た。
「噂どおりの方ですね。」
「俺?」
「はい。」
「聞いてもいいかな。しのぶさん、俺のこと何て?」
「言いません。」
大竹の笑顔が広がる。
「後藤さんも、本人に聞いてください。」
「・・・・・・。」
そうするよ、と呟くと、もう一度軽く頭を下げ、大竹は去った。
「・・・・・・いい青年じゃないの。」
余計に始末が悪い。
*
「驚いたわ。」
出動を労い、帰還したしのぶにコーヒーを饗したら、そのお返しがこれだ。
「心外だなあ。いつも淹れてあげてるじゃない。」
「そうじゃなくて。大竹さん。」
「・・・・・・ああ、」
またずくん、と体の芯が痛む。
「・・・・・・後藤さんには、まだ挨拶もなかったのね。」
しのぶがじっとこちらを見る。努めて明るい声を出した。
「真面目に取り合ってくれそうな人を優先したんじゃないの? 俺が彼でも、俺を後回しにするよ。」
「・・・・・・後藤さんだって、珍しく真面目に対応してたじゃない。」
「熱心な人だったからね、それなりの誠意は見せないと。」
ふーん、とコーヒーに伏せる睫毛が美しい。見とれているとひらりと上がり、「でも」としのぶが言う。
「実際のところ、あれは難しいでしょう?」
「まあね。システム総入れ替えに見合う効果はなさそうだ。」
誰の目にも明らかな話だ。
黙って2人コーヒーを飲んだ。しのぶは何か考えている。
西日が強くなった。
ふいに、しのぶさん、と声をかけそうになり、後藤は慌てた。
胸の中で何かがせり上がっている。
2杯目を淹れ、ぐいと飲み干した。
飲み過ぎよ、としのぶが言った。
*
もうひぐらしが鳴いている。
そんな季節かと空を見上げ、しのぶはボトルの水を飲んだ。
何も、言わないのね。後藤さん。
堤防の方へ歩く。
後藤が好きだった。もうずっと長い間。
いつのことだったろう。後藤が自分に向けるぼんやりとした感情が、恋情だと気づいたのは。
できる限り彼を避けた。必要以上に厳しく接した。後藤にそれ以上踏み込むつもりがないと分かった時
は、既に搦め捕られた後だった。
時折見せる柔らかな視線とか、手袋を片方くわえる癖とか、あの変な鼻歌とか。
まるでセンサーの感度が上がったように、飛び込んでくる情報が突然増えた。いやでも知らずにいられ
なかった。後藤が、自分が、恋をしていると。
2人が踏み込まない理由は、多分、同じだった。このままでいられると思った。そのくらいには、互いに
歳をとったと。
ただ、少しだけ疲れたかもしれない。
日を経るごとに長くなる夜と、全てリセットして迎える、空々しい朝の繰り返しに。
大竹の意図を、後藤が承知しているかどうか知りたかった。
彼は気づいている。
それでも平生と変わらない後藤の態度を思い返し、そうね、としのぶは首を振った。
分かっていたことだわ。始めから。
波間に輝く光が、どぎついくらい目に響く。汗が頬を流れた。少し泣いたかもしれない。
水を飲み干してから、海に背を向けた。
*
ぴかぴかの革靴が突然視界に現れ、後藤は顔を上げた。
「・・・・・・やあ。」
「こんにちは。」
灰皿に押し付けるところだった煙草を口元に戻し、大竹に座るよう勧める。大人しく横に座る青年に差し
出した1本は、丁重に返された。
「 残念だったね。」
「・・・・・・半ば分かっていた結果ですから。後藤さんには感謝しています。」
ふう、と大きな息をつく。
「感謝は大袈裟だなあ。検討して、回答しただけだ。」
「こんな飛び込み相手に、そこまでやってくれる人は少ないんです。」
「大変だねえ。」
「大変ですよ。」
大竹がぐい、と顔を上げた。
「 南雲さん、どこですか。」
「・・・・・・。」
眼差しに決意の色があった。無理もない。彼がここに来る口実はもうなくなったのだ。
「 後藤さん、」
「教えてやんない。」
「・・・・・・!」
口をついて出た言葉に、後藤の方が驚いた。
とっくに諦めたはずだった。
「それは・・・・・・、意思表示、と受け取っていいんですか。」
後藤さん?という声が耳に入り、我に返る。はは、と渇いた笑いがこぼれた。
もう遅い。
「・・・・・・四谷だよ。もうすぐ到着だから、追いつく頃には捕り物も終わってるだろう。」
大竹が後藤を見据える。
「・・・・・・いいんですか。」
「いいも悪いも。」
きっと自分は笑っているのだろう。大竹が首を振った。
「・・・・・・僕には理解できません。」
「うん。」
「礼は言いません。」
「うん。」
それでも律義に頭を下げる。
大竹が去った廊下の奥で、電灯が消えた。足元に蛾が舞い降り、這いずり回るのを見つめた。
重い腰を上げる。
突然強い眩暈に襲われ、後藤は呻いた。
足が前に出ない。
しのぶの姿が、声が、めちゃくちゃに浮かんだ。
窮地を救ってやった後藤に、「余計なことしないで」と食ってかかった。
まかないの豚汁が思いのほか美味いと言ってやったら、思いのほかとはどういうことだと言って怒った。
後藤が頼んだ相合傘をきっぱり断り、しばらく歩いてから、ぶっきらぼうに傘を差し出した。
なんだろうね。かわいくない所しか思い浮かばない。
しのぶさんが好きだ。
ため息と咆哮が喉から漏れた。こんなことは今までなかった。
どうしていいか分からない。
*
大竹の姿を認めた瞬間、その用件をしのぶは理解した。先に帰るよう部下達に告げ、自分は人気のな
い場所を探して歩き始める。大竹が小走りについて来た。
「すみません、仕事中に。」
「・・・・・・。」
小さな公園があった。しのぶにベンチを勧めたまま、大竹は立っている。街灯の明かりを背にしていて
も、男の顔が真っ赤なのが分かった。息を詰めしのぶを見つめてから、口を開く。大事な、とても大事な
ものを手渡すように。
「・・・・・・好きです。」
言った途端、赤い顔が更に赤く染まる。見てはいけないような気がして、しのぶは目を伏せた。
「・・・・・・例の話がご破算になって、もう埋立地に行けないと思ったら、南雲さんに、会いたくて、ちょっと、
切羽詰まってしまって。すみません。でも・・・・・・、」
大竹がしゃがみ、しのぶの目を覗き込む。
「強いところも、優しいところも、好きです、南雲さん。・・・・・・一緒にいたいです。」
申し訳ない、と心の底からしのぶは思った。
たぶん大竹と同じ痛みが、しのぶの中で反応して疼く。自分は乗り越えることができなかった。この恐
れを。
口を開くと、大竹が制した。
「いま断らないでください。」
「 いいえ。」
目を、真っすぐに見た。
「・・・・・・好きな人がいます。」
大竹が苦痛に一瞬目を閉じ、開くと同時に言った。
「あなたがここにいると教えてくれたのは、後藤さんです。」
「いいの。」
「・・・・・・。」
その名を口にするのに、随分力が要った。
「・・・・・・後藤さん、と、もう駄目なのは分かっているの。グズグズと同じ所に留まり続けてしまった。いい歳
して、何も始められなかった。あなたには理解できないかもしれない。」
「後藤さんに、そう言いました。」
大竹が力なく笑う。
「やっぱり分かりません。駄目だと分かってるなら、もう終わりにして、新しく始めたらいいじゃないですか。」
「後藤さんには言うわ。」
「・・・・・・。」
「それで区切りはつくけど、でも終わりにはならない。・・・・・・多分、ずっと、好きなの。どうしようもないの。」
「・・・・・・。」
大竹が、まいったな、と呟く。
「こんな、完膚なきまでにふられるとは思ってませんでした。」
「ごめんなさい。」
「・・・・・・いえ。」
勢いよく立ち上がる。
「・・・・・・出直して来ます、と言いたいけど・・・・・・、」
首を振り、大竹は踵を返した。2、3歩歩いた後、振り返る。
「ひとつだけ、忘れてもらえますか。僕が、後藤さんを貶めるようなことを・・・・・・、」
「いいのよ。」
しのぶが遮り、笑みを見せた。
「後藤さんだったら、もっと悪どくやったわ。」
綺麗な笑顔だった。
ちくしょう、やっぱり好きだなあ。
「え?」と聞き返すしのぶに、
「がんばってください、って言ったんです。」
精一杯の笑顔を作って、大竹は背を向けた。
*
大竹を見送り、しのぶは時計を見た。今ならまだ二課にいるはずだ。
足元を見つめ、歩いた。
あの男はどんな顔をするだろう。
告げた後、自分たちはどうなるのだろう。
駐車場に差し掛かった時だった。
突然、視線の先で、街路樹の影が2つに別れた。
足を止めたしのぶの前に、男が姿を現す。
顔を上げた後藤のいつもの笑みを、街灯が半分だけ、照らした。
「・・・・・・遅かったかな。」
「・・・・・・!」
駆けた。
そんなつもりはなかった。
後藤に殴りかかっていた。
げぐ、という音と拳の痛みで我に返った。尻餅をついた後藤が顎を押さえ、唖然としている。
何か言おうとして何も出て来ず、代わりに涙がぼたぼたと地に落ちた。
「ええと、」
へたり込んだまま、後藤が間の抜けた声を出す。
「なんで泣いてるのかな。」
「知るもんですか!・・・・・・もう、腹が立って腹が立って・・・・・・!」
しゃがみ込み、鳴咽を漏らしながら、後藤の顎に手をやる。
「痛かった?」
「ええ、そりゃもう。さすがだよ。」
なんて駄目な2人だろう。涙を拭い、しのぶは後藤を立ち上がらせた。
「しのぶさん?」
「後藤さんも殴って。命令よ。」
後藤がもそもそとまた座り込む。
「後藤さん!」
「いやだね。あんたに命令権はない。あと、あんたが好きだ。」
「・・・・・・!」
「殴り合って終わりにしようったって、そうはいかない。」
腕を組み、しのぶを見上げる。顎が赤かった。
「・・・・・・めちゃくちゃだわ。」
「しのぶさんに言われたくないなあ。」
後藤が笑う。まあ座んなよ、と言われ、しのぶはよろよろと腰を下ろした。アスファルトが温かい。
「いろいろ覚悟決めて来たんだけどね、こっちもめちゃくちゃだ。とりあえず順番にやろう。」
「・・・・・・。」
「まず、『殴ってごめんなさい』、かな。」
「・・・・・・後藤さんが好き。」
後藤が絶句する。
「ずっと前から好き。後藤さんが言わないから、私も言えなかった。そういう卑怯な人間なの。自分が嫌
になって、あなたのことも・・・・・・、」
「ちょっと、」
後藤に抱きすくめられ、言葉が途切れた。
「ちょっと待ってくれ。・・・・・・いろいろ追い付かない。」
「殴ってごめんなさい。」
とうとう後藤は笑い出した。
「めちゃくちゃだなあ。」
「もう何だか分からないわ。」
「じゃあ、分からないついでに。」
煙草の味がした。
甘い疼きが体を駆け上がり、しのぶはほとんど悶えた。後藤の体がぶるるる、と震える。
唇を離した後藤が、もうダメだ、と呟いた。
「しのぶさん、」
「?」
「俺のものになって。」
「・・・・・・。」
「殴った罰だ。」
「・・・・・・割に合わないわ。」
うそぶく唇をまた塞いだら、しのぶの腕が頭に絡み付いてきた。
顎が痛くて泣けてくる。
顎のせいにできてよかった、と後藤は思った。
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