R is for...







 息を呑むような夕焼けだった。

 捕り物を終え、パトカーの方へ振り返ったしのぶは、突然燃えさかる朱に視界を奪われて言葉を失った。
目に写る全てが、この都心が赤い。こんなに変貌する瞬間が、この街にもあったのか     

「隊長、後藤隊長より入電ですが!」

 部下の声に引き戻される。

「・・・・・・今行く。」

 なんとなく邪魔された気分で無線器を取り上げると、いつもの抜けた声が聞こえた。

『「やあー、しのぶさん。』
「何かあったの?」
『すごいねえ夕焼け。見てる?』
「・・・・・・まさかそれが用件じゃないでしょうね。」
『そんな怒らせること、しませんよ。』

 してるじゃない、いつも、と呟いてしのぶはまた眩しい方へ目をやった。落ちる陽の早さに少し驚く。

『もう沈んじゃうねえ。』
「あのね、ご用件は?」

 あーありますありますよと後藤が慌てて言う。しのぶはため息をついて、部下の方へ「先に戻れ」と合図
した。

『課長に言われてる下見、今から行かない?』
「今から?」
『近いじゃない、そっちからも。出て来たついでにさ。』

 そういえばこの近くという話だった。
 都心も都心、東京のど真ん中にその廃屋はあるという。今なら壊し放題だからレイバーの駆動サンプ
ルを取って来たらという勧めは、課長にしては気が利きすぎていて、メーカーあたりの思惑が窺えた。

「うちの旧式なんかで役に立つのかしら。」
『誰の役に立つかは分からんがね、しのぶさんたちが上手く利用すればいいんじゃない?』

 確かに、意外に乏しい屋内経験のことを思うと、できるだけ訓練の機会を持ちたい所ではあった。

「いいわ、じゃ今から向かいます。」
『は〜い。じゃ現地集合だね。よろしく。』

 何やら楽しげな声が返って来る。釘を刺す前に無線は切れた。

「・・・・・・何がそんなに・・・・・・、」

 嬉しいのかしら、と言いかけて、かすかなきまりの悪さに口をつぐんだ。



     *



 駐車場を探して一周したおかげで、現場の広さはよく分かった。よくもまあこんな所に今まで残っていた
ものだ。
 陽が落ちたばかりの薄闇に、そのばかでかい廃墟は異彩を放っていた。車を降り見上げるしのぶに、
後藤が声をかける。

「やあ。お疲れ。」
「凄い建物ね。」
「ねえ。よさそうじゃない?」

 煙草を金バケツへ落とすのを潮に、館内へ足を踏み入れる。



     *



 悪くないスペースだ。そこここにある遮蔽物といい、撤去の訓練にちょうどいい崩れ加減といい、申し分
なかった。
 ・・・・・・しかし。

「・・・・・・一体、どういう建物なの、これは?」

 言わずにおれない。
 倒れた立像をまたぎながら、室内を見回した。吹き抜けの壁伝いにぐるりと降りて来る階段の赤じゅう
たんといい、蜘蛛の巣の張ったシャンデリアといい、妙にデコラティブで時代がかっている。どれも色褪
せ古びていて、当時の面影は浮かべる由もなかった。

「オペラ座の怪人みたいだねえ。」

 言いながら後藤がビロードのカーテンをつまみ上げ、舞い上がる埃に顔をしかめる。

「・・・・・・どんなのだっけ。」
「知らない?潰れたオペラ座のシャンデリアがぶわーっと吊り上がってさ、昔のオペラ座が甦るの。」
「変な話。」
「そお? ロマンチックじゃないの。」
「ロ・・・・・・、」

 しのぶが呆気に取られる。

「おかしいかね?」
「後藤さんの口から出る言葉とは思えないわ。」
「心外だねえ。こう見えて俺多分しのぶさんより夢見がちだよ。」

 吹き出すしのぶを尻目に、後藤はホールの中央へ歩み出た。

「きっと、ここで夜な夜な舞踏会が繰り広げられたわけだよ。」
「ここで?」
「有り得るよ?迎賓館近いしさ。」

 片腕を上げ、構えてみせる。

「しのぶさん、踊りません?」
「踊りません。そもそも踊れないし。」
「なんとかなるもんだよ。」
「後藤さん踊れるの?」

 思わずしのぶが尋ねた。後藤は笑って答えない。

「・・・・・・踊れるわけないわよね。」
「雰囲気、雰囲気。想像してごらんよ。音楽が流れてさ、飛び交うシャンペン、笑いさざめく人々!」
「たいしたロマンチストだわ、確かに。」

 感に堪えない様子でしのぶが腕を組む。頬を緩め後藤は朗々と語った。

「華やかな踊りの輪へ進み出る2人に、ホールから溜息が漏れる。ドレスを翻す女性は・・・・・・、」

 ちらっとしのぶを見やる。

「・・・・・・流れる黒髪も麗しく、優美なステップは鈴の音のように軽い・・・・・・。」

 しのぶが苦笑いを浮かべた。

「文学部?」
「政経。かたや、タキシードの紳士は颯爽と身をこなし・・・、そうだな、その控えめな笑みからは成熟と知
性の光がこぼれる・・・・・・、」
「・・・・・・だめだわ!」

 ゲラゲラ笑い出したしのぶを、後藤は恨めしげに見つめた。

「だめかね?」
「ほんとごめんなさい。やっぱり私には想像力がないのね。特に男性の方が・・・・・・!」

 まだ笑っている。「想像力あるじゃない。」と後藤はボヤいた。

「さ、冗談はそのくらいにしときましょ。」

 肩を落とす後藤を置いて、しのぶは奥の部屋へ通じる廊下へ歩みを進める。

「これは・・・・・・、衣裳部屋かしら。クローゼットが・・・・・・、」


     


 突然、閃光と耳をつんざく轟音がしのぶの言葉を遮った。ふっと灯りが消え、すべてが漆黒の闇に落ち
る。

「な・・・・・・、」

 同時に降り始めた激しい雨の音に紛れて、後藤の声が広間の闇から響いた。

「また夕立かあ。雨漏りしないかね、この建物。」
「・・・・・・今は他に心配することがあると思うわ。」

 そろそろと壁を探しながらしのぶは答えた。もう何年もこんな闇に包まれたことがなかったような気がす
る。鼻をつままれても分からない、という言葉が頭を掠め、思わず見えないまわりを見回す。ばかばかし
い。何か喋っていようと思った。

「とりあえず、玄関へ戻りましょう。」
「・・・・・・ここで待ってれば、そのうち元に戻るんじゃないの?」
「悠長でいいわね。出動がかかるかもしれないし、とにかく外に出る努力をすべきじゃない?」

 言いながら手探りで壁づたいに入口へ向かった。闇雲に乗り越えた足元の台がガタンと大きな音をた
て、びくりとする。

「動いてるの? 危ないよ。」
「待ってたって埒があかないもの。作業の人もみんな帰っちゃったし、・・・・・・きゃあ!」

 体ががくんと脱力する感覚に、思わずしのぶは悲鳴を上げた。足が触れた床が急に消えたと思った次
の瞬間、ずん、という衝撃が体にかかり、同時に何か重い物が肩へのしかかった。

「しのぶさん!」

 後藤の声が暗闇に響く。軽い混乱から立ち直り、しのぶは手を泳がせて辺りを探った。

「大丈夫よ・・・・・・、床板が抜けたみたい。何か倒れて来て・・・・・・、」
「じっとしてろ!」

 鋭い声にしのぶは思わず黙った。先程の悠長な声と同じ声とは思えない。
 動きを止めて初めて、心臓が激しく鼓動を打っていることに気づいた。いくら目を開けても迫る闇に、飲
み込まれそうな錯覚を覚える。
 ほどなくして、「どこにいる?」と呼ぶ声が入口近くの方から聞こえてきた。

「・・・・・・ここよ。」

 こちらへやって来る気配がする。足音が止まったかと思うと、肩の辺りの重い物が取り除かれた。
 しのぶは手を伸ばした。触れたシャツの裾を握り締める。人が側にいる気配をもっと感じたかった。
 後藤は何も言わない。何か言って欲しかった。

「・・・・・・あの、ごめんな・・・・・・、」

 言葉は宙に浮いた。
 何が起きたのか分からない。しのぶは抱きすくめられていた。
 回された腕がぎゅっと締まり、持ち上げられて、踏み抜いた穴から足が引き抜かれる。
 元の床に立ち上がっても、腕が離れなかった。

「怪我なかった?」
「・・・・・・ええ・・・・・・。」

 朗らかな声だった。抱きしめた腕が、背中をぽんぽんと叩く。ほっとした。
 目を閉じると、煙草の匂いと体温が感じられる。無意識に長い息を吐いた。

「・・・・・・怖かった?」

 はっと我に返った。

「怖くなんかないわよ。」
「そお?」

 見えなくてもニヤつく顔が目に浮かぶ。慌てて腕を振りほどいた。

「馬鹿言わないで。いい年して、暗闇が怖くて隊長なんかやってられないわ。」
「あ、暗闇ね。」

     この男は・・・・・・!

「どうぞ好きなように想像して頂戴。お先に帰らせてもらうわ。」

 ぷいと後藤に背を向け、足を踏み出した瞬間、

「待った。」

 闇の中から腕を取られた。

「なによ。」
「・・・・・・そばにいてよ。」
「な・・・・・・、」

 雨の音が大きくなった。
 後藤が取った手を確かめるように握り直す。

「ごめん。謝ります。」
「何を今更・・・・・・、」
「俺が怖いの。」
「・・・・・・は?」
「俺さ、ほら、想像力豊かだって言ったでしょ。」
「・・・・・・。」
「怖がりなんだわ、こう見えても。」
「後藤さんが・・・・・・?」
「そ。だから、お願い。」

 しのぶはため息をついた。この男がこういう言い方しかできないのは、多分、自分のせいだろう。

「・・・・・・いいわ。」

 後藤の方へ向き直る。

「しのぶさん・・・・・・、」
「一緒にいましょう。こんな状況で離れて行動するのは得策じゃないしね。」

 握られた手を引っ張り、入り口の方へ促す。

「ね、後藤さんは何が怖いの?」

 「は」と言ってしまったことにすぐ気づいたが、もういいわと思った。

「・・・・・・おばけ。」

 どの面さげて言っているのか。

「あ、笑ってる?」
「いいえ。」
「いるんだよ? おばけは。」
「見たことないもの。」
「やっぱり想像力の差だね、ちょうどこんな・・・・・・、」

     ぎぃ。

 突然背後から聞こえた音に2人はぎくりと立ち止まった。ゆっくり振り返って、息を呑む。
 白っぽいものが     
 取った手を知らず握り締める。後藤の喉が鳴った。
 ぼうっと浮かぶ白い影はしかし、よく見ると     

「あ・・・・・・れ、」

 後藤が小さくうめく。そちらへ一歩踏み出したその時。
 灯りがついた。

「・・・・・・!」

 不意打ちの明るさに襲われ、目をぎゅっとつぶってしまう。後藤の「ああ」という声で目を開けた。

「しのぶさん、あれ     、」
「・・・・・・あ!」

 鏡だった。クローゼットの扉が半分開き、裏側の鏡に手をつないだ2人が映っている。
 慌てて手を離した。

「・・・・・・私たちが映ってたのね・・・・・・。」
「そうだね。でも・・・・・・、」

 鏡の方へ歩み寄る。しのぶにも後藤の不審げな声の意味は分かった。さっきの影は真っ白だったのだ。
しかも・・・・・・、
 ドレスとタキシードだったように見えた。

「ただの鏡だねえ。」

 後藤の声にはっとする。

「そうね、私たちが映ってただけよね。」
「・・・・・・。」
「行きましょうか、長居は無用よ。」

 入り口へさっさと歩き出す。後藤も「うん」と従った。まだ何か考えている。

「あのさあ、しのぶさん。」
「なに?」
「なんか、こう・・・・・・、すごーくロマンチックなものが見えなかった? さっき。」

 しばらく考えてから、しのぶは言った。

「・・・・・・少なくとも、全然ロマンチックではなかったわ。」
「あ、そう。」
「そ。」

 音もなく揺らめくカーテンに2人は気づかなかった。






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