3日間
「なあにこれ。」
午後の隊長室にしのぶの声が響く。しのぶは携帯にじっと見入っていた。
後藤からのメールである。大阪府警のレイバー隊設置に先立ち、後藤は今日から3日間の出張に赴い
ているはずだった。
メールにはなんだか黒っぽい画像が貼りつけてある。
『昼飯のネギ焼。牛スジ入り。レモン醤油で食べる。うまいよ』
しのぶは吹き出した。着いた早々なにやってるのかしら。
『しっかり仕事するように。画像は暗くてなんだか分かりません。』
ものの5秒で打ち終わり、さっさと送信する。直後に出動のサイレンが鳴り、しのぶは男の顔になって立
ち上がった。
*
出動は長引き、2課に戻った頃にはすでに夕闇が迫っていた。1日の勤務を終えてファイルを片付ける
しのぶの耳に、引き出しの中のくぐもったバイブ音が聞こえる。後藤からだった。
『すごい夕焼けだよ。カレーのにおいがする』
文面はそれだけ。団地だろうか、洗濯物のはためく建物の向こうに、赤々とした空が映っている。しのぶ
はしばらく画像を眺めた。口の端にかすかな笑みが浮かんでいる。やがて立ち上がり、窓際へ向かった。
港の鉄塔の上にかかる月を見つけ、携帯で撮ってみる。赤い点とその上の黄色い円という画像に、こ
れじゃ朝の後藤さんの写真と変わらないわね、と苦笑した。構わず送ることにする。
『こちらはもう月が出ています。今夜はカレーにしようかしら。』
帰り支度が済んだ頃、またバイブ音が聞こえた。
『しのぶさんのカレー食いたい』
陽は完全に沈んだらしい。薄暗くなった木々の上に、出たばかりの月が写っている。しのぶも撮った月
だ。
「・・・・・・。」
しのぶは窓を開け、もう一度月を眺めた。虫の音が聞こえる。
窓枠に肘をついて、そのままもうしばらく月を眺めた。
*
翌日、隊長室で弁当を広げた途端に例の音が鳴る。なんとなくそわそわと携帯を開いたしのぶは脱力
した。
「どういうつもりなの、まったく・・・・・・。」
『美人婦警発見』と題されたメールには道端で撮ったらしい交通課の女性が写っている。少し化粧が派
手だが凛として、目鼻立ちのはっきりした美人のようだ。それにしても・・・・・・。
『よかったわね。なんならお願いしてこっちに一緒に連れて帰れば?』
躊躇せずに送信する。玉子焼きとほうれん草と炒め物を口へ放り込んでいると着信音が鳴る。お茶を
すすって一息ついてから携帯を開いた。
『しのぶさんは殿堂入りだから心配しないでよ。怒った?』
パコッと携帯を閉じた。正直怒ってはいなかったし、「殿堂入り」が後藤の最大級の賛辞であろうことも
想像できたが、返事を返すのは後にしてやろう、と決めた。10分後には会議もあるしね、と、箸を進める。
*
帰宅の車に乗り込んでからしのぶは携帯を開いた。案の定メールが入っている。
しかし3件という数字はどうしたことか。
『エスカレーターの列が東京と左右逆でやりづらい』
右側に並ぶ人々を写した写真。
『グリコネオンはもう阪神のユニフォーム着てないね』
道頓堀の看板の写真。
『縦じまレイバーがあった』
縦じまレイバーの写真。
しのぶは呆れるのを通り越して笑いだした。まったく、もう。
『怒ってないわよ。』
一言だけ返してエンジンをかける。窓には楽しげなしのぶの横顔が映っていた。
*
翌朝は雨だった。しのぶはたまった書類に読みふけっていた。珍しく出動のない静かな1日が過ぎてい
く。
午後になって雨がやみ、しのぶは風を入れようと窓を開けた。後藤の机から紙切れが1枚飛ぶのが目
に入る。拾い上げてみると、「留守です」と書かれたメモだった。重しと一緒にメモを置き直してから、しば
らく後藤のデスクを眺める。クリップとガムが転がっている。
「・・・・・・。」
つ、つ、と人差し指でデスクマットを撫でてから、思いついてしのぶは席に戻り、携帯を取り出した。後
藤の席をしのぶの席から見えるとおりに撮る。
主人不在の席は書類を風にはためかせながら、ひっそりとしてそこにあった。
しのぶは写真を送信した。メッセージはつけない。
*
1日が終わり、私服に着替えてからしのぶは携帯を開いた。
『俺も寂しい。会いたい』
しのぶはじっと文面を見つめた。この送り主と自分をこの世で結びつけた何者かに感謝したい気がした。
『寂しいなんて言ってません。誰かさんがいないと静かで仕事がはかどるわ。』
携帯の画面にキスしてから、送信ボタンを押した。
明日は後藤が帰って来る。
*
昨日とは打って変わって忙しい日だった。朝から出動がかかり、出動先からさらに別の事故に駆り出さ
れて、2課に戻った頃には午後3時を回っていた。
ネクタイを緩めながら隊長室のドアを開けると、
「おかえりー、しのぶさん。」
聞きなれた声がかかりしのぶは一瞬立ち止まった。すうっと息を吸ってからずかずかと部屋へ入る。
「ねえ、ちゃんと仕事してたの?」
しのぶの第一声に後藤はがっくりと肩を落とした。
「ひどいなあ、してましたよ。朝5時起きで現場回って、夜はなんだかんだで飲まされるしさ。 俺しぼんじ
ゃったよ。」
「そうかしら。」
いい香りがする。1人ではなんとなく淹れる気がしなかったコーヒーだ。後藤がしのぶのカップを持って
きた。
「はい。淹れたて。」
「・・・・・・ありがと。」
カップを受け取ろうとしたが後藤は手を離さなかった。
「しのぶさん、寂しかった?」
「いいえ。」
「あ、そう・・・・・・。」
またうなだれる後藤のカップを持つ手に、しのぶはもう片方の手を重ねた。
「おかえりなさい」と小さく呟く。
カップはあっさりとしのぶに奪い取られたが、後藤は嬉しそうに顔を輝かせていた。席について仕事を
始めるしのぶを眺めている。
「ねえしのぶさん、終わったらごはん行かない?」
「あ・・・・・・、」
「どうしたの?」
しのぶは言いづらそうに口ごもっている。
「なんか予定あった?」
「・・・・・・カレー、」
「え?」
「カレー、作ってもいいわよ。」
しのぶは書類に目を落としたまま言った。
「カレーって、しのぶさん作ったばっかじゃないの?」
「・・・・・・延期したの。」
「・・・・・・。」
「それとも、カレーのほかに何か食べたいもの・・・・・・、」
目を上げるとすぐ前に後藤が立っていた。ちゅっと派手な音が上がる。後藤はしのぶの真っ赤な顔をに
んまりと眺めた。
「今いただきました。」
「後藤さん・・・・・・、」
「二番がカレーね。」
「レトルトでもどうぞ!私は残業ですから!」
「ええ?」
「後藤さん、今日はもうあがりでしょ。お疲れさま!」
さっさと書類を仕上げて隊長室を出る。2、3歩かつかつと歩いてからしのぶは立ち止まり、唇に手をや
った。後藤を待ち焦がれていた自分にはっきり気づいて大きく息をつく。
課長室から戻ると後藤はいなかった。煙草でも吸いに行ったのかしら、と考えていると引きだしの中か
ら例の音がする。
『俺が作るよ。終わったら俺んちでカレー食べよう』
メッセージを眺めながら、しのぶは温かいものが心を満たすのを感じていた。
おそるおそるメールを打つ。
『寂しかった』
5文字に異常な時間をかけ、送信した。
遠くで霧笛が鳴っていた。
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